品とは何かについての考察

あの人は上品だ、品があるなんてな事を申します時それはその人を評価している場合がほとんであって

行き過ぎた上品、いわゆる場違いな場合を除いては基本的に品があるのは良い事とされる。

では上品な振る舞いとは何なのか?と考えると、マナーに則った行為であったり控えめな様子を思い浮かべるであろうけれど

本質的には、他者に影響を与えない行為であると言えるはずだ。

逆に言うと下品な人というのは、他者に不快感を与える訳であり

その一番の要因は音であると私は考える。

バカな奴程 うるさい

これは例えば、暴走族を見れば分かるようにただバイクを乗るだけでは飽きたらず

マフラーを改造する ラッパを鳴らす 空吹かしする

等の行為はどれも音についてのものであって、他者への影響を出来るだけ与えようとするものである。

ラクションの音を聞くととても不快な気持ちになるのは、

そういった配慮が無い行為だからであって、

他にもテーブル・マナーであれば、

クチャクチャ音を立てて食べないだとか、フォークやナイフをガチャガチャいわせないだとか、

パスタを啜らないというのも全て音に関する事で

音を立てるという行為は、世界的に見てもよろしくないよねという認識がある。

個人的に、下品だなあと感じる行為は

道に唾を吐く 階段をドタドタあがる ヒールでカツカツ音を立てて歩く等

やはりそのどれもが行為よりもサウンド、もっといえばサラウンドにあるといって間違いない。


京都の由緒ある場所でまだ残るルールで、

オファーは最初の2回断る だとか

ぶぶ漬けを勧められたら帰ってくれの合図 だとかというのは他の地域や、その暗黙の了解を知らない人には、一見不条理なルールに見えるかもしれないけれど

品がある そういう観点から見ると本質的には同じだということが分かる。


では、品がある行為 上品な振る舞いをする事のメリットは何か?というと

結論から言えば 自衛 であると言って良い。


世の中にある無数の事件の中で、どうにもならんなと感じるのは

ストーカー殺人含め

気狂いの粘着行為であって、目をつけられたら試合終了

即ゲームオーバーである。

これは思想信条の自由が憲法によって保証されているという事であって、

人を殺したいと思うのも自由、死ねと思うのも自由

板垣死すとも自由は死せずだよね という事であって、

私達は現在、先人の活躍のお陰で頭の中は自由である。

故に、気狂いも堂々と往来を闊歩するし

実害を与え、それを警察が感知し身柄を拘束するまでの間

一つの狂気は実社会と接点を持ったままである。


つまりは、品がある行為や上品である事というのは

気狂いから目をつけられないようにした方が良いよねというのがベースにある価値観であって

特にロイヤルな方々や、上流階級の方々の間で徹底されるし

盗られるものが少ない庶民の間ではあまり意識的に取り組まれて来なかったと言える。


今現在インターネッツの発達で、誰でも情報を発信できるようになった。

はるかぜちゃん問題や、クラウドファンディング(ネットで出資者を募るやり方)

の抱える根本的な問題は、

世の中には一定数の気狂いがいる

という前提に対して、防衛線を張る事が困難だからで

目立ちたいという気持ちと、気狂いに目をつけられたくないという気持ちは

どうやっても矛盾する。


治安維持法での赤狩り

思想犯を捕まえる事の難しさは、映画「マイノリティ・リポート」を観ても分かるけれど

ストーカー殺人の報道で、自己防衛の大切さが語られる横で

アイフォン片手に裸でインターネッツの世界に飛び出る若者たちがいて

事件が起きてから、危機感、危機感と騒ぐ。


私は貝になりたいと思いました。