勇者ヨシヒコと魔王の城 真面目なレビュー

たった今観終わった「勇者ヨシヒコと魔王の城」。

ゲームをする人なら分かるだろうが、元になっているのはドラクエだ。

まずはこれをドラクエの元になったロード・オブ・ザ・リングとの比較で考えたい。

ロード・オブ・ザ・リングは数多ある中世ファンタジー映画の王道的な内容ではあっても、いわゆるロールプレイングゲーム(以下RPG)とは程遠い作品であり、ドラクエとの関係で言えばあくまでも原作的な位置づけでしかない。

では勇者ヨシヒコはどうかと言うと、

設定はゲームの中であるが、舞台は現代で

現代人がゲームの中の人を演じるという形になっている。

あまりにもチープな敵であるのに、彼らは真剣にそれに挑むが現代人的なゆるさも同じくあって

その曖昧な境界がこの作品の一番の魅力になっていると思う。

そしてその現代的ゆるさが常に、演者はロールプレイしている感じを醸し出す。

ゆうなれば、

ロード・オブ・ザ・リングはファンタジー映画であるが

勇者ヨシヒコと魔王の城RPG映画だと言ってもいいはずだ。

そして、現代の人間がゲームを演じるのだからし

ドラクエよりも、

テーブルトークロールプレイングの方にずっと近い。

ファンタジーがどうこうよりも、ゲーム的なものを見たかった人には

ロード・オブ・ザ・リングよりも勇者ヨシヒコの方がずっと面白いと思う。

あくまでも子供のごっこ遊び的なノリを大人が真面目にやるというものなので、

真面目に作品に対峙すると、モンティ・パイソン的な肩透かしを食らう。

モンティ・パイソンの「ホーリー・グレイル」へのオマージュもあったし、

たくさんのパロディや、多用な演出で驚きもあるし

何より笑いの種類が豊富なのが素晴らしい。

すかし系がベースになっているものの、

アフレコ、ものまね、声あて、メタ視点、下ネタ、天丼、出落ち、シリアス

実に様々な笑いがある。


私の琴線に特に触れたのが、

アナログドット時代のゲームへの愛である。

ファミコンからスーパーファミコン時代のゲームは、

容量の少なさからあらゆるものが簡略化されていて、それを補うのが私達子供の想像力だった。

そしてこの作品もまた予算の少なさから、あらゆるものが記号的である。

歩く山の中の風景は、どうみても日本の山であり

衣装から小道具どれもが安っぽい作り物だ。

そしてそれが逆に私たちに想像力を要求する。

演者はそんな作り物でも疑問を持たずにそこにいるからして、私達にもそれを要求してくるのである。

つまり、この作品を鑑賞するという事は

私の世代が大好きだったあのアナログでチープなゲームを今再びプレイするのと同じ行為なのである。

容量が無くても、予算が無くても世界を旅する事は出来るじゃないか

僕たちには想像力がある


そんな風に私に語りかけてくる素晴らしい作品でした。

PS,私は木南晴夏を深く胸に刻んだ