紅葉と辛いに共通する問題から現在のカタカナ語氾濫の世の中への警鐘について
今週のお題「紅葉」
紅葉と書いて紅葉、また紅葉と書いても紅葉と読みます。ってな風に書いたところで何のこっちゃ
もっと言えば何のこっchina。(ちなみにこの場合のchinaは、シナと読むと左側の人と揉めますしダジャレも成立しませんので普通にチャイナと読みます。)
このように、同じ表記で複数の読み方をするものというのが世界には多々あって
一番最初の文も、
もみじと書いてこうよう、こうようと書いてもみじと読みますと本来読ませたいのに
紅葉紅葉と複数の紅葉が大連立を組んでしまって、
ある人には、全く関係無い山村紅葉を思い出させてしまったかもしれず
またある人には、前田耕陽までイメージを飛躍させてしまったかもしれない。
紅葉の場合であれば、一年を通して会話に登場する事もあまりないのでまだ良いけれど
これが辛いという言葉であるとそうもいかない。
カレーが辛い
こう書くと、大抵の人はからいと読んでしまうものであるけども
ココ壱の10辛を2回食べた事のある私は、本当に辛いカレーはつらいものだと知っている。
しかし、辛いも辛いもどっちであってもマイナスイメージであるので雰囲気的には仲間と言って良さそうではある。
同じものを別の言い方で読む事によってリノベーションしようというのは昔からあって、
ズボンがパンツになって、ボトムになってというのは皆様の知るところである。
私はこれをだせぇなと思い、かねてからアジェンダしイノベーションしようと画策してきた。
そして今こうしてそれをプロパガンダし、皆様に私のイデオロギーを伝えると共に
暗黒面に落ちてしまった一人のマイフレンドにコミットメントしたいと思っている。
かといってそれで何かがソリューションされる訳でも無いことも当然知っていて、
しかしコンセンサスを得る事でスムーズなコミュニケーションを得る事がポッシブルな訳で
かといって、何でもかんでも迎合したらいいってもんでも無いってのは
それは私がアーティスト足らんとしているからであって、
アーリーアダプターを志すのであれば、新しい潮流に乗るという事それ自体が矛盾でありダブルスタンダードであって、
かといって一人で何かを成すことのリミットもあり、
特に私たちはバンドという立場でケミストリーし、シナジー効果を得たいとのマインドも持っているので
言葉それ自体をまずアセスメントし、その上でコンセンサスを築く必要がある。
なんてな風に言うのがしゃらくせえなと思った過去から、
私の曲の歌詞には英語は無いし、あってもカタカナ表記出来るもので、熟語も極力使わないようにしている。
それは私がアーリーアダプター足らんとした為であって、
そこの所をセイハローして頂けたら、私たちはきっとアライアンス出来ると思うので
まあ今後ともファッキュー