音信不通のその音

久しぶりにブログの更新に相成ったのは、単純に本日インターネッツが開通した為で、

テレビもねえ、ラジオもねえ、インターネッツもねえ、友達もいねえとなると

私に入ってくる情報というのは、私が能動的に求めた結果によるものになって

この何か月かの間菊池成孔ユングサウンドトラック」「M/D」を複数回読んだり、

マイルス・デイヴィスの自伝を読み直したり、「ネフェルティティ」「プラグドニッケル」というマイルスのCDを買ったり

急に新撰組の事が気になるも、DVDを探すと忠臣蔵というのもあってジャケットの裏を読むと

討ち入りの話らしく、新撰組も討ち入りの話がメインテーマだった様な気がして

結局、坂本竜馬通で知られるドラムのアフロ様に電話で聞いてみたところ、

時代が違う、人が違う、というか全然関係無い話だという事が分かり、

昔の日本人はよく討ち入りをしたものだ と思いながら、

結局その日は、「るろうに剣心」を借りるという自分でも何をしているのか分からない有り様ながら

その後しばらくして、最近では三谷幸喜脚本「新撰組!」をほぼ毎日のように観る日々で

1巻2巻、そして3巻4巻とリズム良く消化、残すところあと2巻

現在11巻まで観ているのだけども、

どういう訳か、何故そうなるのか

誰も新撰組を同時期にレンタルしている気配が無かったのに、

さて残り二つ、12巻13巻を借りようと思ったら

レンタル中という極めてふざけた事態であり、たまに韓流のドラマなぞで

1巻と最終巻をレンタルする謎の貴婦人を見掛けた事もあったのだけども

まさか唐突に最終2巻を借りるなどという不貞浪士が私の目の前に立ちはだかるとは夢にも思わず

まあこの際気になっているものを消化だ という感じで

「テレクラキャノンボール2013」を鑑賞。

女子には全く薦めようとは思わないが、男子は必見の作品である。

つづく「BISキャノンボール2015」も借りてみる程、久しぶりに未知の領域に連れて行かれた感があって

AV監督という極めていかがわしい職業だと思われる人間の

だからこそのジェントル、テンダネスに男子として啓蒙され背筋が伸びる思いがあった。



この勢いで徒然に書きたいのは、映画「セッション」についてである。

ようやっと観て、私が言いたいのはただ1点。

主人公が凡庸なのか天才なのか判別がつかないという部分であり

またジャズを題材に扱うのであればアドリブというものをもっと丁寧に扱って欲しいなあというのもあり、

あれが吹奏楽部だったなら全く問題無いのだけども、

ラストで知らない曲を演奏させられる部分も、ピアノやベースならアドリブでついていくのは大変だろうけども

ドラムであればもう少しまともな演奏が出来るはずだし、

天才であるなら出来るべきだし、そもそも知らない曲がある時点で怠慢であって

というか一度の挫折でドラムセットを片づけるような根性なしが

何故にステージに立とうと思ったのかも謎であり、

ましてやラストに至ってはセッションという言葉の意味は何だっけかなと思う程

自分勝手なドラムソロが延々続き、

エンドロール中よくよく思い出してみると、

コーチのおっさんの指導がいまいち訳が分からなかったなあというのが感想で

序盤、おっさんがどんどん激昂していき最終的には椅子を投げるこの映画の一番のみどころも

どうやらドラマーの彼が叩き出すBPMが遅いとか早いとかで怒っているらしいのだけども

正解のスピードが観ているこちら側も分からないという点で

最早鬼コーチが優れた指導者なのか分からないというこの映画のハッタリが

結局 最終的に全部ハッタリだったという今一な感じで

私は終始この映画に乗れず仕舞いだった。

歳をとると大体みんなアコースティック志向になる理由

最近だと菊地成孔先生の「東京大学アルバート・アイラー」なんてな本を読んであって

少し音響学みたいな部分を知った気になって思うのは、

何でも理由があるのだなあ という事で、

私も生まれたての頃は、グングンにギターを掻き鳴らすのがロック及び魂だと思っていて

まずカート・コベインなんかを神と崇めてみるところから始まって、

それがシド・ビシャス、ジャコパスときて、レッチリのフリーというほとんどエスカレーター式の

ベーシストという人種のいわば王道のルートを辿ってあるのだけども(ベーシストだけに)、

その後はベースを極めようと思った人であれば言わずとも分かる展開で

すげえ色々あったけども、結果的にチャック・レイニーみたいな話で

ベースという楽器の最終着地点は大体どっかのバンドの黒人というのが定説である。

で、ロックバンドの勤続年数が段々と増えていくと

グングンにギターを歪ませては、悪態をつく、道に唾を吐く、人を叩くなんてな事をしていた人も

ひとまずそういった事を若気の至りとして総括し、

ブルースを極める、アコースティック作品を作る、弾き語りを始めるなんてな事をしがちで

ファンにとっては苦々しいみたいな気持ちで見守ってみたり、

魂を金で売っただとか大人になっただとか単純にダメになったみたいな事で意気揚々と糾弾するのだけども

今私が思うのは、アコースティック化する事での音楽家的良心の所在というもので

まあ簡単に言うと、

歪んだギターの音色を放棄する事で得られる自由とは何か?という事である。


コード進行というものは言葉の通り時間に則って進んでいくものなのだけども

その推進力というのは簡単に言うと不安な状態を安定させる為の運動であって

不協和音が鳴らされた瞬間から私たちは協和音に解決を求めるのだけども

歪んだギターというのはそもそもが和音を鳴らすには雑音が多いのであって

パンクバンドがパワーコードという3和音で演奏するというのは、そもそも

歪んだギターの音では4和音、5和音と例え協和音であっても音を重ねていくと

どんどん音が濁っていくなんてな事で、

つまりパンクバンドというのは原理的に非常に単純なコード進行しか演奏出来ないと考えて間違いないっつうのは

ニルヴァーナの「MTVアンプラグド」というアコースティックアルバムを聴いても分かるのだけども

このアルバムには代表曲である「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が入っておらず

やたらとカバー曲が多いというのはつまりはそういう事で、

アコースティックで演奏するにはそれなりの音楽的強度が必要になるのであり

その強度の土台となるものはコード進行に他ならず、

そういう点でニルヴァーナの楽曲の場合は

3度の音程を提示しない事による不思議な浮遊感が真髄であるので

アコースティックで演奏するには視聴に耐えかねるのでカバーを色々やるしかなかった

という見方も可能であると思うのだけども、これはつまり

歪んだギターの音を獲得した事でロックは音楽的飛躍に成功した反面、

歪んだギターによってコード進行の可能性に関してはかなりの部分制約を課せられたといえるわけで

ロックミュージシャンのアコースティック化は、あくまで音楽的前進を求めてなされるものであるのだよと

中学3年生だった私に言ってやりたいのだけども

たぶん、ジャズ最高とか言ってる頭の固いじじいは家でレコードでも聴いてろ

と言われるのだろうぜ

ロックミュージシャン長生き問題

人間長い事生きていると段々に世の中の仕組みが分かってくるもので

ああ ロックミュージシャンつうのは早く死ななきゃ駄目なのだなあ

なんてな事を、駄作を繰り返し発表するばかりの死に損ない達を見て思うのだけども

しかして逆に長生きする事そもそれ自体が価値を放つなんてな事もある訳で十人十色だ

また、一神教的世界においても私の知る限りで

プロレスの神様カール・ゴッチ、サッカーの神様ペレ、ギターの神様寺内タケシ

ロックの神様ボブ・ディラントイレの神様植村花菜

この世には神様が多い。


そんな事を考えている日々、

民謡とファンクとロックを融合した世界初の音楽うんぬんみたいな謳い文句で

最近耳を大いに汚染されてあって、というのもツタヤの有線放送なのだけども

民謡とロックとファンクの融合と聞いて

ソウル・フラワー・ユニオンの名前がまず浮かんだ人は全国に100万人はいるだろうし

こういう言ったもん勝ちみたいな事に対して

セッションであんなに熱くなった菊地成孔先生や、他大御所先生方が華麗にスルーするのは目に見えてるのだけども

ツタヤの全く信憑性の無いコメントポップに音楽評論家の方々が

総ツッコミするなんてな雑誌の企画があったら是非購入したいと思うのだけども

そういうのは大人の事情で出来ないのだろうなと

諸行無常

最近の私の遊びは、

ブラジル1000 というボサノヴァアルバムが新譜で1000円で買えるという夢の様な企画において

帯の裏の文章を吟味するだけで名盤を掘り当てるというもので、

将太の寿司における目利き合戦的な感じがあって楽しい。

ボサノヴァのCDだけが増えていく

外崎先生という名の心の恩師

今週のお題「思い出の先生」

私が心に好奇心というモンスターを飼う事になったのは、

紛れも無く小学6年生の時の担任である外崎先生の教育の所為である。

外崎先生とはどういう人だったかというと、当時としては若い男の先生であり

正義感の塊でありながら、柔軟性もあり

鬼の顔と仏の顔を同居させるルーキーズでいうところの佐藤隆太的な感じで

算数の時間がいつの間にかローマ数字の話になり、いつしか古代ローマの話になり

最終的には社会の授業になっていた みたいな事が多々あって、

私はそんな先生の脱線に脱線を重ねた結果、全然違うレールに乗ってました

みたいな授業が大好きで、勿論先生自身の事も大好きだった。

当時私はお笑い芸人になりたかった様な人間で、

ひょんな事から女子を泣かせるみたいな事があると、帰りの会がそれはそれは恐ろしく

といってもこちらに非があるのは子供ながら百も承知で、

そんな時は、くどくどと説教する事も無く

分かっているね 的な感じで、ゲンコツを脳天に頂戴したもので

ではそれで先生を恨むかというとそんな事は全く無く

悪い事をすると罰せられるという至極当然の成り行きに納得してあって、

しかしながら先生のゲンコツは油断していると少しおしっこが漏れるくらいの衝撃があり

私は痛さと共にもう女子を泣かせない というアホな誓いを立てるものの

修学旅行の際にはテンションが上がり列を離れてゆらゆらしていたところ、

列を離れるんじゃないという理由で再びゲンコツを頂戴し、

私は痛さと共にもう列を離れない というアホな誓いを立てながら、

修学旅行という行事を考えるならば、もう少し手加減をして欲しかったなどと子供が考えそうな事を考え

そんな思い出と共に今外崎先生を思い出している。

それから後、世間では体罰問題なんかが取り沙汰されたりなんだりした際も

ふと外崎先生を思い出しては元気にやっていらっしゃるかなと思ったものだけども

風の噂で、今先生はフリースクールで先生をやっているような話を聞いただけで

卒業以来私は一度も先生にお会いしていない。

先生の教育が間違っていたのか現在私は非正規雇用です。

極々最近の思考経過

ここ最近の私の傾向としては、ブルーズ。

ミートソースをそっと彩るパセリの様に、

左手は添えるだけ みたいな感じでほんのりあるブルーズに興味があって、

店内で流れる岡村靖幸宇多田ヒカルカバー「オートマティック」に、

サビのアクセントの音でかすぎやしませんか と思いながらも、

散りばめられた横文字が岡村靖幸テイストに完璧にマッチしてあって、

名曲の風格ばっちりや と思い、ギターを持ち歌ってみたところ

おや おやおや

これはイカンザキと思ったっつうのは、サビ前。

『声を聞けば自動的に sun will shine』の部分である。

オートマティックという題名から推察されるように、

この曲は男と女が出会い、正にオートマティックな塩梅であれがナニするなんてな楽曲であって

それが仮に吊橋を渡ったら恋に落ちたであっても、万引きしたら捕まったでも

死んだら驚いた でも何でも良いのだけども、

それを表現するのが創作であって、その作中において

【自動的】なんてな言葉を使うというのは極めてダサく、

全体を通してもこの部分の【自動的】という表現は、非常に役所臭いというか

Aメロからずっと口語でやってきたのに、いきなり文体がかしこまってしまっていて

もうちょっと言い方あるやろ と思うのは私だけなのだろうか。


なんてな事を考える日々、寝る前にひょんな事からオフスプリングを聴いていたところ

元来オフスプリングは、オジー・オズボーンであると唱える私であったのだけども、

実はニルヴァーナの影響が半端ないという事実に何故今まで気づかなかったのか不思議で

この曲なんかまんまニルヴァーナ


こうして比べて聴くと一目瞭然なのに、不思議なものだ。

ちなみにAメロ部分は同じくニルヴァーナのインブルームを参考にしていると思われ

音楽って面白いなあ と思ったのでした。

CDやっぱり出ませんがな

色々あった結果、以前に話した形ではCDは出ない模様で

何故模様なぞという曖昧な言い方かというと、

非常に宙ぶらりんの状態のまま約一ヶ月放置されている為で、

私自身、もうどうでもよい気持ちのままここ数ヶ月過ごしてあって

しかしながら、作品を作るに当っては全力でこれ臨んだので

その成果は何らかの形で世には出したいと思っている旨、外の川が大変荒々しい。


簡単に経緯を記しておくと、

好きにやって下さい 出来ればJ-ROCKであげぽよで という意向を受けて

私がガンガンに好きにやったところ、一切ギターが鳴っていない若干メロウな作品が出来てしまって

結果、それだと売れないので(遠回しに)ギターが鳴ってるあげぽよでという意向を再度受け

歯を食いしばりギャンギャンにギターを鳴らしたところ、

音沙汰無し。

というか間に入った人間の連絡が全く無くほったらかしにされ、

わしゃ 干し芋

というくらいに干され、そしてこの雨である。

そんな状態だもんでブログを書く気にもなれず、コメントにすら気づかずで

それでもこのブログにいらしていた方は、本当にありがとうございやす。

新たな目標も出来たので、今後共よろしくお願いしゃす。

私は元気です

いつも下着はユニクロを

個性個性と諸手を振って、平等平等と世界に一つだけの花が100万本咲いたところ

「個性的ですね」という言葉が小馬鹿にしながらも相手のご機嫌を伺えるマジックワードと化したというのは、

何とも皮肉。皮肉という漢字には骨が無いと今気づいたのは置いておいて、

全然俺の琴線に触れねえ と専ら古い音楽ばかり聴いているのだけども、

最近の音楽には、個性が無くていかんよ

っつうのもこれ当然の話だったのだなと思ったのは、鎖国

日本も100年と少し時代を辿っただけで、ちょんまげという謎のヘアスタイルに

銃社会も真っ青の二本差しが町を闊歩する何てな有り様だった訳で、

侍もしくは武士というものがちょっと変っつうのは、国を開いてみないと分からんかったっつうのがあるのだろうけども、

これが例えばインド人であるならば、

YOUTUBEでコンプレックスの名曲「ビー・マイ・ベイビー」を見た途端

PVなのに人二人しか出てねえよ( ´,_ゝ`)プッ

となるのもこれ致し方ない。

ましてや、現在マーケティングの時代かつ最大公約数の時代。

映画を観ても分かるとおり、

若い女子向けのキャスティングに、アホでも分かるストーリー

良さ気な人情話に、ちょっとした毒。ペーソス。

そんなもんが人の心に深く突き刺さる訳も無いのだけども、

我々はもう少し、「踊る大捜査線2」を日本最大のヒットにしてしまった事を反省した方が良いし

谷亮子が政治家をやっているという事実に震えても良いのであって

いうなればバランスの時代。

バランスが良いという事はセンスが良いという事なのだけども、

では個性というのは何かというとそれは歪さ(いびつ)であり

情報が世界中を一瞬で駆け巡るこの世界においては、

逆に情報を遮断する事こそが歪さを維持する為に出来る自衛であって

今現在陽のあたる教室にいない作家芸術家は、

自分という内宇宙で鎖国し、刃を研ぎ髷を結い、

ペリー来航の日まで墾田永年私財法が吉。