歳をとると大体みんなアコースティック志向になる理由

最近だと菊地成孔先生の「東京大学アルバート・アイラー」なんてな本を読んであって

少し音響学みたいな部分を知った気になって思うのは、

何でも理由があるのだなあ という事で、

私も生まれたての頃は、グングンにギターを掻き鳴らすのがロック及び魂だと思っていて

まずカート・コベインなんかを神と崇めてみるところから始まって、

それがシド・ビシャス、ジャコパスときて、レッチリのフリーというほとんどエスカレーター式の

ベーシストという人種のいわば王道のルートを辿ってあるのだけども(ベーシストだけに)、

その後はベースを極めようと思った人であれば言わずとも分かる展開で

すげえ色々あったけども、結果的にチャック・レイニーみたいな話で

ベースという楽器の最終着地点は大体どっかのバンドの黒人というのが定説である。

で、ロックバンドの勤続年数が段々と増えていくと

グングンにギターを歪ませては、悪態をつく、道に唾を吐く、人を叩くなんてな事をしていた人も

ひとまずそういった事を若気の至りとして総括し、

ブルースを極める、アコースティック作品を作る、弾き語りを始めるなんてな事をしがちで

ファンにとっては苦々しいみたいな気持ちで見守ってみたり、

魂を金で売っただとか大人になっただとか単純にダメになったみたいな事で意気揚々と糾弾するのだけども

今私が思うのは、アコースティック化する事での音楽家的良心の所在というもので

まあ簡単に言うと、

歪んだギターの音色を放棄する事で得られる自由とは何か?という事である。


コード進行というものは言葉の通り時間に則って進んでいくものなのだけども

その推進力というのは簡単に言うと不安な状態を安定させる為の運動であって

不協和音が鳴らされた瞬間から私たちは協和音に解決を求めるのだけども

歪んだギターというのはそもそもが和音を鳴らすには雑音が多いのであって

パンクバンドがパワーコードという3和音で演奏するというのは、そもそも

歪んだギターの音では4和音、5和音と例え協和音であっても音を重ねていくと

どんどん音が濁っていくなんてな事で、

つまりパンクバンドというのは原理的に非常に単純なコード進行しか演奏出来ないと考えて間違いないっつうのは

ニルヴァーナの「MTVアンプラグド」というアコースティックアルバムを聴いても分かるのだけども

このアルバムには代表曲である「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が入っておらず

やたらとカバー曲が多いというのはつまりはそういう事で、

アコースティックで演奏するにはそれなりの音楽的強度が必要になるのであり

その強度の土台となるものはコード進行に他ならず、

そういう点でニルヴァーナの楽曲の場合は

3度の音程を提示しない事による不思議な浮遊感が真髄であるので

アコースティックで演奏するには視聴に耐えかねるのでカバーを色々やるしかなかった

という見方も可能であると思うのだけども、これはつまり

歪んだギターの音を獲得した事でロックは音楽的飛躍に成功した反面、

歪んだギターによってコード進行の可能性に関してはかなりの部分制約を課せられたといえるわけで

ロックミュージシャンのアコースティック化は、あくまで音楽的前進を求めてなされるものであるのだよと

中学3年生だった私に言ってやりたいのだけども

たぶん、ジャズ最高とか言ってる頭の固いじじいは家でレコードでも聴いてろ

と言われるのだろうぜ