シンゴジラ評

シンゴジラを観るのも初めてなら、アイマックスで鑑賞するのも初めてであり

それらが相互に干渉しあい、最終的にはアイマックスすげえという印象が強く残ったものの

さて、世間では「シンゴジラ」はどういった評価のなされ方をしているのかしらと

ヤホーレビューを覗いてみたところ、うむ。

レビューをレビューするサイトが今後勃興するのではないか むしろしてくれと思った。

私の見解では、

シンゴジラ」は100点満点の完全無欠な傑作では無いものの

映画内リアルの構築度の巧みさにおいて、

色々言いたい事はあるものの、傑作でいいんじゃね?的な位置に着地した。


映画館で初めて観た「シンゴジラ」の予告は、

アメリカ版ゴジラこと「クローバーフィールド」の日本版といった趣きがあり

非常に興味をそそられたのだけども

その後に観た予告編では東京にぽつねんとただ一人立つゴジラがまるでコントの様で

あれ? しょぼそうじゃね?と不安になった。

本編を観ると分かる通り、

クローバーフィールド的な映像、状況は映画冒頭5分までの間に数カットあるだけで

クローバーフィールドが市井の人々の目線から作劇されていたのとは対照的に

シンゴジラ」では実際に国を動かす人々が中心になり話が進んでいく。

映画の冒頭からとんでも無いスピードで場面が切り替わり、

10分もすると、ああ 字幕読ませる気がねえんだな と気づくのだけども

字幕に流れる長い肩書と名前を何度も見せられて分かる通り、

この映画には役割を持たない人間が一人も出てこないし、

インデペンデンス・デイ」のエイリアンのファーストアタックを食らう

ビルの屋上に集まるパッパラパー的な人間も出てこない。

しかし、1箇所だけそういった市民がクローズアップされるシーンがあって

そのシーンでの市民は音声のみで映画に登場し、

そしてその声を長谷川博己は聞いていない。

こういった映画的表現はうまいなあ と素直に関心させられる。

そして関心させられた次の瞬間、唐突な片桐はいりである。

うまいなあ と思う。


シンゴジラ」には、「シンゴジラ」を作った庵野秀明のような芸術家は一人も出てこない。

ゴジラのいる世界では芸術なんて何の役にも立たないし、

ゴジラはあっという間に街を破壊する。

しかし、ゴジラのいる世界であっても映画は前向きに終わるし

ゴジラのいない我々の世界はモアベターなはずだろ?

なんてな風に色々とこじつけられる様に出来ているし、

誰もが言うであろう石原さとみに関しての諸々や(祖母の件とか)

個人についてまわる属性を切り捨てたストーリー構造及び、

ゴジラは何段階か変形するのに対して、

基本的に長谷川博己を除いて、劇中の人物は誰も劇中で役割を変えない演出になっていて

例えば、竹野内豊が実は良い人でした みたいな事にはならないのに対して

総理大臣はさくっと変わったりと

そういったコントラストが明確であったり

KREVAはどこに出ていたんや とか

どんだけ放置したらラーメンがあんなに伸びるんや とか

言いたい事はまだまだあるけども

結論をいうと、色々したり顔で言いたくなる映画だというのは間違いない。

宇多田ヒカルが中島みゆきになっていく可能性

ここ最近の音楽体験で一番の驚きは何と言っても

宇多田ヒカル花束を君に」である。

NHKの朝ドラを何とはなしに観ていたところの主題歌であって、

へー 宇多田さんこんな仕事もするんだなあと思っていたところのドラムサウンド

自分の耳を疑った。

2016年のこの時代にまさかあのようなドラムサウンドが成立しているのか

果たして世間はあれでよいのか

と思ったのだけども、なるほど中島みゆきだな と合点がいった。

人が、国民が中島みゆきを語る時は大概が歌詞及び歌声に言及するのであり

そこで鳴らされるプリセット感丸出しのキーボードのピアノの音色であったりとか

地上の星」では2000年という時代にゲートリバーブのかかったスネアの音が堂々と鳴っていたりとか

所謂音響的な工夫に乏しいのだけども

ではだからといってそれが音楽的な配慮に欠けるかといえば、

むしろ音響的な情報を減らす事によって、音韻的な意味を強調させる方向に作用しているはずで

仮に中島みゆきの新曲がアデルの様な現代ジャズの音で鳴らされたとすると

やはりそれは中島みゆきの本質では無い部分で話題になるはずであって

それはつまり中島みゆきの本質はドラムサウンドやピアノのサウンドには無いという事の証明でもある。


今回の朝ドラの曲で宇多田ヒカルは、サウンドを放棄したと言ってよく

これは宇多田ヒカルが現代性を放棄し普遍性を求めているという心理状況にあるとみて間違いなく

今後ますますご健勝とご多幸をお祈りすると共に、

最近観た「バードマン」が非常に良かった事、「アクトオブキリング」も大変良かった事

ご報告致します。

PS、宇多田ヒカルの朝ドラをYOUTUBEで検索しても、糞みたいな釣りしか無いので頑張って朝に観て頂けると幸いです

何故グースハウスが嫌いなのか

グースハウスが大嫌いなのは何故だろうと考えていたところ

メイJ、JUJU、2000年代のパンクバンド、歌い手

全部大嫌いだという事に何かしらの因果がある様な気がしてきて

それは私がマイルスデイヴィスの音楽に惹かれるという事と同義だということに気付いたっつうのは、

菊池成孔大谷能生の著作を数冊読み込むうちに

リズムの訛りについての記述に非常に共感を覚えたからで

つまり訛りというのは、複数秩序を単一の秩序に収める際のバグであり齟齬であるとの記述なのだけども

これはそのまま芸術家のアイデンティティーに直結する問題であり

そもそもバンドというものの面白さは正にそれで

バンドメンバー全員がラモーンズ大好きです みたいな事では化学反応は望めないもので

実際問題、ある一人の音楽家に心酔していますみたいな人の音楽は大概詰まらないものになりがちで

しかしながら自分の過去の全てを1つの楽曲として結実させるというのは大変な困難なもので

だからこそ遣り甲斐もあり、そのブレンド具合によってオリジナリティというものが表出するのだと私は思うのだけども

グースハウス てめえはダメだ

というのは、創作の苦悩をすっ飛ばし音楽の楽しいところだけを味わうなんつうのは

ライブもしてないのに打ち上げをやる みたいなもので、

そんなものはただの飲み会である。

人様にお見せするものでは無いのである。


そんな事を最近は考えていた

ブルーノマーズにおける中性的という言葉の刷新性

フリップフラップ以降、中性的と表現される際は

妖精的というか単純に性差を超越するベクトルだけでは無いニュアンスが含まれるようになってあって

本来であれば北斗晶ジャガー横田も中性的と表現されて良いはずなのだけども

言うに及ばずなのか知らんがあまりそういった表現は聞いた事が無い。

そこでブルーノマーズである。



ブルーノマーズを一目見て私はおばさんのようだ と感じた。

しかしただ単純におばさんに似ているだけではなく、

そこにはおばさんがおじさん化していく過程までも切り取られたドキュメント性があり

おばさんという言葉にそもそも含まれているおじさん化への動きまでも含めた上で

つまりおばさんそれ自体の持つ中性的側面も含めて、

ブルーノマーズはおばさんのようだ と思う。

これは逆説的に言えば、

ブルーノマーズはおじさんのようだ とも言える訳で、

そりゃ単なる老け顔でしょ と言う人もいるかもしれないのだけども

いや むしろブルーノマーズは童顔であって、

童顔なのにおばさんとおじさんを内包するその顔面に

私はアップタウンファンク。革命。

インドのダンス

「WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜」という映画を観て思ったのは、

優香がちゃんとヤンキーの姉ちゃんに見えて良かった事と

チェーンソウで木を切るときの目線が変だなあという事と

人間、さよならという時に大きく手を振るとインドのダンスの様に首が動くのだなという事である。

最後の感動的な別れのシーンで、長澤まさみが手を振るのだけども

どうしてもインドの踊りにしか私には見えなかったのであって、当然感動よりも滑稽が先にきてしまい

たぶん通常の感覚ではスルーするのだろうけども、私にはどうもそれだけが気がかりで

それ以降、手を振っている人を見る度にインドっぽく首が動いていないかチェックしてしまっている。



話は変わって、ビリギャルである。

DVDのパケには「1年で偏差値40上げて大学合格した実話」みたいな事が書いてあって

ネタバレも甚だしいし、その話何回目だよ

ドラゴン桜とか二宮金次郎とか松下幸之助とかそういう話はもう聞き飽きたわ

というのは私だけでは無いと思うのだけども

努力すれば何とかなるみたいな事を言いたいのだろうけども、

むしろ滅茶苦茶頭の良い子が環境の所為で実力を発揮出来ていなかっただけの話なのではないか

という身も蓋もない事を言うのは大人げないとは思うのだけども

観てないけども粗筋だけでもう私の中でビリギャルは観た事になってあって

そういうのは観ない事にしてある。


そんな訳で最近面白いドラマを発見した。

真面目なサラリーマンが罠に嵌められて、それのリベンジをするという話なのだけども

まんまアクション映画の筋書きなのに燃えるのは、それが日本的な陰湿さを余すところ無く伝えてあるからで

特に親父達みんなの顔が素晴らしくて、2話目以降が楽しみだ。

ちなみに半沢直樹っていうタイトルです。

オススメです。

センスとは何か

ライブに出るバンドメンは、必ずSEの選択を迫られる。

SEとはバンドとバンドが出演する合間に流れる楽曲のことで、

私達はこんな音楽が好きですねん

もしくは単純に上がる曲を事前にかけて、お客様の気分を高揚させる装置として

そこで選ばれる音楽はある意味でそのバンドの本質が全て浮き彫りになるものであって

故にセンスが問われる。

センスとは何か


バンプオブティキンが好きな人に対して、私はバンプオブティキンが好きですねんと言うと

この人はセンスが良い人だ と思われる可能性が高いのだけども、

CD1万枚は余裕で聴いてます みたいなDJが相手の場合だと

あ、バンプですか 良いですよね ロック。

みたいな変な気を使われる可能性が高い。

センスとは何か。

センスとはチョイスである。

バンプとB’zとニールヤングでは誰が好きか という問いがあった場合、

バンプないしB’Zを選択した人はニールヤングを知らない可能性が8割ある。

ニールヤングは1枚目から最新作まで全部聴いてるけど、その中ならバンプの方が好きだな

という人はこの世に1人か2人、多くて3人しかいない。

そう考えるとセンスというものは

何を知っているか? その中で何を良いと感じるか?

という自己申告でしか無い事が分かる。

SEというものにセンスの全てが出ると言っても過言では無いという意味は上記の理由による。

センスを磨く なんてな事を人は高校2年生あたりで意識し、

この間までハリーポッターを観ていたのに、いきなり「市民ケーン」もしくは、

勝手にしやがれ」「七人の侍」「エルトポ」なんてな映画を観始めるのだけども

結局のところそれは単純に知っているものを増やすというだけの事であって

高校2年生が「7人の侍」を好きだ と言ったところでセンスが良いという事に直結する訳ではなくて

そんな生意気な事を言う高校生は、

「赤ひげ」「生きる」「羅生門」「蜘蛛の巣城」を観てから出直しなさい

そしてウーバーワールドみたいな恰好でしゃしゃるのは大学生になってからにしなさい

と私に叱咤される運命であり、

センスというのはかくも難しいものだ と悟るのだけども、

そうして色々なものに興味を持ち、見聞を広めていくと

結局のところセンスというものは、

他人にどう思われたいか

という1点に収束していく羽目に陥るのだけども、

そこでいう他人というもの、それは不特定多数の人間では絶対に無く

多くの場合それは自分が愛する人であったり、親友ないし友人であって

自分が尊敬する人に自分は尊敬されたい と単純にそういう話であり

結果、

自分が何を尊敬するかがつまりセンスというものの本質なのである

という結論を私は得たのだけども、

ここまで自意識が突き抜けてくると、

SEを選ぶ際にも、

「もうアンダーワールドをかけるのは恥ずかしい」

ディスカバリーが売れてしまったからもうダフトパンクはかけられない」

ビートルズならアンソロジーのトゥモローネバーノウズだったらセーフ」

「逆にパフュームはありの可能性がある」

フランス・ギャルはそろそろ2周目だから大丈夫」

「インアサイレントウェイかけとけばオッケー」

みたいな事で、こうなってくると自分がどんな音楽を演奏前に聴きたいか

という視点は皆無で、どう思われるかを意識する事が全てである。

あなたに格好良いと思われたい

そのあなたを想像し頭の中に描くこと

それがセンスを磨くという事なのだ とおじさんになって思いました

私からみたモードジャズ

初めてやったジャムセッションは1コード1発のファンクだった私にとって、

モードでアドリブをする事はむしろ当たり前の話で、むしろコーダルにアプローチするやり方が分からないというか

そもそもコードがグングンに変わっていく曲をジャムろうなんてな事すら考えた事もなかったので

私にとってモードとは非常に簡単な作法の如しであった。

菊池成孔先生も仰っている通り、ロックというのはマイナーペンタ1発で全部OKの

モード的な演奏が主軸にあるのは間違いない。


また、バップという音楽から零れたマイルスデイヴィスについて

バップの垂直性に対して、マイルスは水平的だ なんてな事も言ってあるのだけども

私にとって作曲とは息を吸うのに等しい行為なのだけども、

作曲というのはそもそも、水平的動きであり

無限の即興から選択し、永遠として定着させる芸術行為であると私は考えるのだけども

「カインドオブブルー」というアルバムは正に究極の作曲であって

そこで鳴っている音も、鳴らされなかった音も含めてあの作品があって

特に、そのコードのヴォイシングがロックでは絶対に聴けない響きで

「so what」でいうところの

D F G A C というコードにおけるsus4がM3に解決しない事で起きる緊張感の持続が

私はすごいなあと思うのだけども、5音というほとんど面といっていい音で

モード演奏を成立させているあのピアノこそMVPなのだなあ

すごいなあ 良いなあ と

今現在 新たに自身を見つめ直している最中。

CEROの去年出たCDを先日聴いて、

半分悲しく、半分嬉しく

マイルス・デイヴィスがオーネットコールマンに感じたであろう感じを私も感じた

今日、無事新撰組を借りれた。