宇多田ヒカルが中島みゆきになっていく可能性
ここ最近の音楽体験で一番の驚きは何と言っても
NHKの朝ドラを何とはなしに観ていたところの主題歌であって、
へー 宇多田さんこんな仕事もするんだなあと思っていたところのドラムサウンドで
自分の耳を疑った。
2016年のこの時代にまさかあのようなドラムサウンドが成立しているのか
果たして世間はあれでよいのか
と思ったのだけども、なるほど中島みゆきだな と合点がいった。
人が、国民が中島みゆきを語る時は大概が歌詞及び歌声に言及するのであり
そこで鳴らされるプリセット感丸出しのキーボードのピアノの音色であったりとか
「地上の星」では2000年という時代にゲートリバーブのかかったスネアの音が堂々と鳴っていたりとか
所謂音響的な工夫に乏しいのだけども
ではだからといってそれが音楽的な配慮に欠けるかといえば、
むしろ音響的な情報を減らす事によって、音韻的な意味を強調させる方向に作用しているはずで
仮に中島みゆきの新曲がアデルの様な現代ジャズの音で鳴らされたとすると
やはりそれは中島みゆきの本質では無い部分で話題になるはずであって
それはつまり中島みゆきの本質はドラムサウンドやピアノのサウンドには無いという事の証明でもある。
今回の朝ドラの曲で宇多田ヒカルは、サウンドを放棄したと言ってよく
これは宇多田ヒカルが現代性を放棄し普遍性を求めているという心理状況にあるとみて間違いなく
今後ますますご健勝とご多幸をお祈りすると共に、
最近観た「バードマン」が非常に良かった事、「アクトオブキリング」も大変良かった事
ご報告致します。