宇多丸映画評論に対する考察
お抱えの評論家を持つ というのは大変素敵な事であって、
高校時代私も解説 大鷹俊一や渋谷陽一や田中宗一郎や妹尾なんたらなんてな名前があればとりあえず買ってみる
なんてな事をして、その後様々に物事が分かってくると自然と彼ら評論家と一定の距離を置いて接してきたというのも
CDに付属している音楽解説の限界 というものが次第に理解せられ
簡単に言うとCDに付属している以上駄作であっても解説上であーだこーだと罵倒する事は叶わないという
いわゆる大人の事情というものがあって、逆に言うと罵倒してしまう様な解説者であれば
あえて広報もそういった人に文筆の依頼をしない暗黙のルールがあって、
では宇多丸という人の評論が何故かように熱狂的な信者を生んでいるかと考えるに、
頼まれてもいないのに映画の評論をしている というその立場に絶対的な支柱があって
それはナンシー関が熱狂的に支持されたのと同様の担保であり、
分身ばばあことおすぎが次第に求心力を失っていった経過に
タレントとしての活動の場が増えていった事で切れ味が悪くなっていったのを考えるに
公平な立場でものを言う という事がいかに社会的に難しいかという事もあり
現在映画において最も信頼のおける評論家と言って良いと思う。
と言いながら昨日までまともに宇多丸先生の評論を聞いた事が無かったのだけども、
映画「ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー」を拝見したところ、宇多丸先生のラジオが少し気になり聞いてみて
これは熱狂的な信者をファンを獲得するのも道理だなと感心した。
宇多丸評論の特徴は、
①駄作傑作問わずに熱量が高い
②可能な限りの情報収集に努めている
③建設的な代案の提案
④早口でありながら気になる口癖が散見しない
⑤対象の映画のジャンルに偏りが無い
という事になるだろうか。
特に⑤のある種当たり屋的と言っても良い映画選択は、企画趣旨自体がサイコロで観に行く映画を決めるという事もあり
誰がどう考えても駄作であろう作品に対しても、誠実に向き合い
誠実にどう駄目かを考察する様は、
観たくないならチャンネルを変えれば良い といった発言に対して、
強烈なカウンターになっている上に、
映画を消費する事の中に評論も合わせて消費するという鑑賞スタイルを
現代という時代で体現出来る希少な体験に昇華している様に思う。
ヒップホップという音楽自体、批評性の高い音楽ジャンルであり
引用する音楽においてもただただ引用すれば良いものでは無く、
音楽を引用するという事は、音楽以外の周辺事情も結果的に引用されてしまうものであって
例えばパクリは駄目だよ なんてなライムをフローしている曲が
オレンジレンジの曲をサンプリングしていたとすると、
仮にサンプリングした曲自体がパクリでなくても、
そこに文脈が発生してしまうのであって、
他人の創作物を扱うという点において非常に繊細にそれと対峙するという事に対して
バランス感覚はそれ故のものなのかな と感じる。
作品は駄作であっても、評論は傑作である という批評としての当たり前の可能性や
日本の遅れすぎた批評文化に対して今後宇多丸先生が活路を開くのか
ライムスターのダサイジャケットも併せてオススメな評論家です。
オープニングが本当に映画史に残る傑作だと私も思います。