キムタクマック問題

今から数年前、格好良い男というパブリック・イメージを一手に引き受ける男がいました。

木村拓哉 通称キムタクです。

毎年毎年、何らかのアンケートを取ったら1位木村拓哉とそれはもう不動の地位にいた彼ですが

ある時期世間に一斉に流れたのが、ご存知の方もいる通り

「キムタクがマックでハンバーガーを買って、それを店の前でガードレールに腰掛けて食べた」

という情報でした。

当時の世間は、

キムタクをキムタクとも思わないその振る舞いに圧倒され、そこにシビれる憧れるぅと拍手を惜しまず、

早川義夫「かっこいい事はなんてかっこ悪いんだろう」という視点をそれは軽く超越し、新たなキムタク像の構築に成功した訳です。


この事件で最も重大な事は、

自意識の隠蔽であって、つまり俺は俺の事を特別なキムタクだとは思っていないよ

という態度は、アイドルであれば誰でも抱えるナルシシズムというものを束の間私達から忘れさせてくれ

それはキムタクというイメージをより強固にイケてると補強した訳です。


私どものバンドも前述の早川氏の様に、努めてかっこ良さの演出の排除をする事で

かっこ悪い事はなんてかっこ良いんだろう と他のバンドとの差別化を図って参りました。

これは要するに、

かっこうをつける事の排除です。

かっこうをつけて格好良いもの とは、マック事変以前のキムタク観ですが、

かっこうをつけない上で結果かっこいい これがM事変以降のキムタクな訳です。


そして2000年代も中頃、

全てはキムタクコンピュータの演算結果によるものだとの見解が、

千原ジュニアによってもたらされました。 ※すべらない話参照

これにより、自意識の隠蔽によって築き上げられた今までの功績を踏まえた上で

その自意識の絶大さにおいて、新たなるキムタク像を構築せしめようという狙いがあったようです。


マック事変で世間はキムタクの気取らないかっこ良さというものを再認識した訳ですが、

その裏で、「そういうワイルドな一面もありまっせ」 というただの演出だよと告発する人々は確かにいて

それがダウンタウンや故ナンシー関女史の様な根っからの早川義夫チルドレン達だった訳ですが、

そこには、

自意識の隠蔽を目論む自意識のかっこ悪さ という視点がありました。

つまり、どんなに結果を求めようともかっこをつけている時点でそれはかっこ悪いんだという価値観であり

かっこいい事はなんてかっこ悪いんだろう という結果重視主義の当初のスローガンは、

かっこをつける事はなんてかっこ悪いんだろう というナチュラ原理主義的な価値観を獲得するに至った訳です。

こういった傾向を自意識のロハス化と私は見ていますが、

これは女性における、すっぴん至上主義や無造作ヘアーへと脈々と現在も受け継がれてます。

が、一つ忘れてはならないのは

テレビにおける「NG大賞」や山田邦子の「イニシャルトーク」というもので、

世間は、芸能人の裏の顔、素の部分というものへの関心があるという事が下地になっていて

本来目に見える部分だけで判断するしかない世の中であるのに、

イメージを売り物にするアイドルは、素の顔というものまでイメージをコントロールしなくてはならなくなったという実情があって、

キムタクはワキガらしいよ だとか、

大鶴義丹はチンピラらしいよ だとか、

ローラは計算らしいよ だとか、そういった悪いイメージで語られる事をどうにか当事者側から否定する動きがあって

その結果、

加賀まりこ大物説

安岡力也良い人説

エディ・マーフィー死亡説

等の信ぴょう性のある学説が、主に側近によって世間に公表されるようになりました。


私達日本人はほとんど無宗教ですので、

いつも神様が見てくれているから良い振る舞いを常にしよう という考えには至りません。

壁に耳あり障子に目あり という言葉や、悪い事をすると罰があたるという言葉で自分の行動を律するのみです。

実はかっこいいという話が今後される際は、

そのかっこいい様を確認した第三者がいた という事を忘れてはなりません。

誰が見ていなくてもかっこ良くありたい

それが死ぬまで続いた時、初めて人は格好良いのかも知れません。