ドラマ「鈴木先生」を鑑賞して

10時間前に1話目を見始め、10時間後に10話目を見終えている。

9話目が終わった時に、家の珈琲のストックも無く紅茶を飲み干した所だった。

礼儀として、こんなに素晴らしい作品を作ってくれた方々への敬意を込めて

缶珈琲を買いに外に出た。

私にとって、珈琲と煙草は作品を鑑賞する上での敬意の表明であり

本当に面白い作品に対してその敬意を失ってはいけないと思った。


鈴木先生の考え方は簡単に言うと、促しが根本にあるのだと感じた。

これは私自身バンドメンバーの育成に関して頭を悩ませた事があるのもあり、非情に筋が通っていると感じた。

人が人を導く際に正解なぞ無く、それは本人の意志次第でもありスラムダンクでの福ちゃんを始め指導者は本人の資質を見極め無ければならない。

その点で、朝起きれない彼女をしばらくそのままにする私の方針と一致する部分がある。

どっちに転んでも不正解という問題はこの世に多々ある。

化粧をしたまま寝る彼女を無理矢理起こすのは、肌には優しい。

しかし、化粧をしたまま寝てしまう程疲れた彼女を起こすのは体には優しくない。

それならば私は、本人の意志を尊重したい。


そしてそういったモヤモヤを的確に表現していたのが「鈴木先生」だと思う。


最近、正義とは 修正舵そのものを指すのでは無いかと考えています。

考え続ける事、答えを探し続ける事でしか公平さは絶対に保てないもので

これが正解だと決めてしまった時点から、それは次の不正解への布石になってしまうのだと

そんな青臭い事を考えています。


最終話の演出は特に素晴らしく、鈴木先生の温かい眼差しはとても美しかったです