街からうんこが無くなった日
初めてうんこを踏むという事を認識した日、幸いにも踏んだのは自分では無かった。
「うわぁ、◯◯がうんこ踏んだぞぉーっ!」
そう遠くから聞こえてきた時、私の体は自然と走り出していた。
正に蜘蛛の子を散らすように小学生がワラワラと走り周り、辺りは一気に騒然とし
お祭り とはこういう事なのかという高揚感が感じられたのです。
汚いものを掴んだ手は汚れている
そういう子供の潔癖性が生んだ動乱。
今もあの時のように、体は勝手に動いてくれるだろうか
あの時のピュアな気持ちを無くしていないだろうか。
よくイジメとイジりについての違いの話がされるけれど、結局はそこに救いがあるかどうかなんじゃないかと思う訳です。
うんこを踏むという悲劇を真摯に受け止めるならば、同情されてしかるべきではあるがしかしそこに救いは無いのではないかという話であり
つまり僕たちは走りだす事で、彼の悲劇を喜劇として楽しむ事で、救われない彼の気持ちが少しでも晴れてくれればと
子供ながらにそういう風に考えていたのかもしれない。
人の不幸を笑うというのは聞えは悪いけれど
笑い飛ばすという言葉があるように、起こってしまった事はどこかで昇華されないと鬱屈とした澱が底に溜まっていくだけだと思う。
不幸自慢、病気自慢、怪我自慢
負を負として受け止めるのではなく、一人では抱えきれない闇を皆で分け合うなら
この世はそこまで悪いものではないはずだ。
うんこを漏らす事は悲劇だけれど、
うんこを漏らした話をするのは喜劇だという事
うんこを踏む誰かのおかげで、それを笑う誰かが救われる事もあるのに
うんこはもう街にない。
うんこを踏んだ悲しみを無くす行為は、
この世から、うんことそれで救われる気持ちをも消し去ってしまった。
リンゴを食べる鳥を駆除したら、今度は虫にもっと多くのリンゴを食べられる事になったという話と
とても似ているような、本質的には全く別の話のような
そんなふわっとしたどうでも良いお話でした。
外は寒いですね