堂本剛の痛さの本質について(長文)
堂本剛を見て感じる痛さは、片岡鶴太郎を見て感じる痛さと同質である事は周知の事実である。
しかし、堂本氏の痛さは胸の奥底をえぐる痛みがあってそれはむしろ片岡氏よりも沢尻エリカの方に近いかもしれない。
双方に共通するワードは、「態度」である。
たいして面白くも無い癖に、さも面白いかの様に振舞うこと
たいした根性も無い癖にさも加賀まり子であるかの様に振る舞うこと
こういった有り様は、再三ナンシー関が言ってきた世間の認識と本人の自意識とのギャップの痛さであるが
しかし堂本・沢尻両氏から感じる痛さは他に類を見ない種類であると私は感じる。
態度が大きいもしくは、小さいといった程度の問題ではなくそこには別種の何かがある。
そしてそれは「ぶっている」という事なのだと私は推測する。
天才芸人ぶる
大物女優ぶる
気取り と言い換えてもいい。
「金田一少年の事件簿」から「若葉のころ」そして「ぼくらの勇気 未満都市」まではあくまでもアイドル的であったのに
いつの間にか現在の形態に落ち着いている。
WIKIPEDIAを読んでびっくりしたが、
堂本剛のジャンルは、J-POP,ファンク,ブルース,ロックらしい。
そして読み込んでいくと、あくまでもソロとKinKi Kidsは別のものである事がわかる。
ここにあるのは、「本物」への渇望である。
本物のアーティスト、芸術家になりたいという魂の叫びが聞こえてきそうな程に徹底している。
そして痛さの本質はそこにある。
理想のアーティスト、芸術家像というものが予めあってそれに寄せていく事の痛さ
理想像の陳腐さ
芸術家と言えば「岡本太郎」であり、ギタリストと言えば「ジミヘン」
ライブではドラムを叩き、ベースも弾く。
ほとんどレニー・クラビッツである。
そういった中二病と言える状況は、あくまでも中二で卒業するものであり
これまでこれ程メディアに露出することはなかった。
人は過ちを犯す。それは間違いない。
曙も相原勇と付き合った。
中二病というのは要するに蛹のような状態であり、それはあくまでも成虫になるのに必要な通過儀礼なのであって
本来不安定な状態で揺らめいているものだ。
そして本来不安定な状態、いずれ脱するはずの状態で安定化してしまったのが堂本剛と見ることができる。
誰もが通った多くの若気
それを臆面もなく出し続ける堂本
そこにあるのは、懐かしさと恥ずかしさの同居であり
そういえば俺もこういう時期あったよなあ という自責の痛さなのである。
簡潔にまとめると、
1,理想像に対して臆面もなく同化していくその青さ
2,理想像がある事がばれている恥ずかしさ
3,自分の青かった時期を思い出させる同族嫌悪的感情
4,歌い方がいつの間にかミスチルみたくなっている悲しさ
5,剛を剛紫(つよし)と表記する寂しさ
こういったところに痛さの本質があると私は分析する。
ちなみにマイクの使い方もおかしい。