米一俵分の罪

母が送ってくれた玄米1俵、精米すればいいよ と簡単に言われたので

簡単に承知、サンキューと言ったのも後の祭り。

日常に精米という項目が無かった私達は、

まあ 玄米は健康に良いっていうしね と言い訳をして、

爾来、玄米を食うという罰を日々をもって受けてきた。

しかし、



ない玄米

とは良く言ったもので、米一俵。一向に減る気配が無い。

玄米が田んぼに帰っていく足音が聞こえない。


そんな生活を半年から続けていると、

牛丼が食いたい のではなく、白米が食いたいという理由で吉野家に行くなんてな事もあり

戦後のドヤ街で銀シャリを求めて奔走する何てな描写も、よりリアルに感じ

白い米を見るだけで、お釈迦様ありがとうの気持ち。


それというのも、ただ精米を怠ったばかりに起きた悲劇。

体に良い不味い玄米を食い続けるのと、

体に普通の美味しい白米を食い続けるのでは、果たしてどちらが健康的なのか。

現在、間違い無く精神の健康は良くないような気がするのだけども

だからといって、ご飯を残す事に多大な罪悪感を感じる私は

不味いという理由で玄米を処分する なんてな事も出来ず、

これは ノルマ。

ノルマであり、カルマなんや と言って、日々玄米を消化してきた。


一昨日スーパーで買い物をした際、いつもは通らない米のコーナーに立ち入った。

私達は目を合わせた。

半年間、私達はよくやった。

きっと玄米も許してくれる。

そこに言葉はいらなかった。


私達は5kg3800円程の上等な米を買った。

純潔の白い米は雪の様に、汚れつちまった悲しみに降り積もり

罪は償われた。そんな気がした。



そして、減らない玄米が今後本当に減らないという新たな罪を私は犯し

思えば遠くまで来たものだ と息を吐いた。