コード進行問題

音楽を評価軸の異なる要素で大まかに分けると、

コード進行、メロディ、アレンジ、歌詞、音質

大体この5つに分ける事が出来る。

そこで音楽に興味の無い人にコード進行の重要さを散々私は説明してきたのだけども

色々説明した挙句、最終的にはちょっとホワイトボードある?となり

あぁ ないの?じゃあまあいいや。

なんつって、とりあえずコード進行は重要。これだけ覚えといて。つって話を進めてきた。

で、この度私はコード進行の重要度を映画に完璧に置き換える事に成功したのである。


コード進行は映画でいうところの場所、ロケ地、セットにあたるものだと気づいたのは

ここ最近何となく大作のSF映画が多いなあと漠然と感じていた所から始まる。

プロメテウスを華麗にスルーしていた私は、

オブリビオン」「アフター・アース」も華麗にスルーしてあって、

パシフィック・リム」こそ劇場で観たものの、

最近では「エリジウム」がレンタル開始となっていて、

何かやたらSFが多いなあと日々過ごしていた。

そうなると、何故SFが多いのかを考えずにはいられないのであって

色々考えてみたところ、結局は

新しいものを作った気になれるから という所に着地した。

制作側の気持ちの問題である。


映画における場所というものは、まず2つの種類に分けられる。

一つは、実際にある場所で もう一つは実際には無い場所である。

しかし、映画の中で新宿と渋谷を描いた所で

それは街中という意味しか持たない何てな事があって、

例えば雪山映画。

八甲田山であれ、クリフハンガーであれ、運命を分けたザイルであれ

山が例え違っていたとしても、画面が意味するところは雪山でしかなく

映画の上で、チョモランマとK2を描き分ける事は不可能に近い。

これは例えば、砂漠であっても同様で

タクラマカン砂漠サハラ砂漠の違いは、素人目には判別がつかず

砂漠という記号でしか我々には認識されない。

こういった事から、

ロケーション撮影をあえてする意味というのは、

その場所特有のシンボルを映すという目的が無いのであれば(ローマの休日等)

作品としてあえてその場所である必要が無い場合が多い。

映画監督というのは、誰も見たことが無い映像を撮りたい人々なのであって

世の中の映画の多くがスタジオで撮影されるというのは、

この世界に無い場所という意味において実に理にかなっている。

ところが、内容が全く違うにも関わらず

金八先生鈴木先生にはどうしても似た映像が多くなるっつうのがあって、

それはひとえに学校という場所が、そもそも閉じた場所だからというのがあるが

そういう点から、教室から外の風景が一切見えない映像にした「告白」という映画は野心的であったと言って良いし

北野武が「座頭市」でタップを踏んだのも、新しい画を獲得する為にした挑戦だったと言える。

つまり、既存のフォーマットの上で何か新しい映像を撮りたいと思った場合

何かしらの工夫が必要な訳であり、

その点SF映画は、SFというフォーマットこそあるものの

基本的には何をしても大丈夫なのであり、その点で実に安心感がある。

西部劇、時代劇が作られなくなったのは、

常に時代考証という正解が突き付けられるという面もあれば

あえてそのフォーマットを使ってやったとしても、二番煎じ感を拭えないのでは作家として意味が無いからで

その点SF映画であれば、宇宙船とエイリアンのビジュアルという問題さえクリアすれば

及第点は貰える 気がするっつうのがあって、

たぶんそういった事情から今、SF映画がアホみたいに作られているのだと思う。


私は昔からどうしても密室劇に惹かれる傾向にあって、

レザボア・ドッグス」「レッド・オクトーバーを追え」「キサラギ」「インセプション」「ウレロ☆未確認少女」「ごっつええ感じ」等

限られた空間の中で何をするか?という点で挑戦的なものが大好きで

たぶんそういった事から、私はコードを2つしか使わない曲に挑戦したり

4つのコードのループだけで曲を作ったりという

今のこの私の作曲スタイルがあるのじゃないかと思い、

よし、これからはフォレスト・ガンプだと心に誓い

結局のところ、キャスト・アウェイで孤立。

一人自室で作曲。