松本人志論

こんにちは ゴッドタンで唯一見ない企画が、スナック角ちゃんの私です。

人間働くとブログの更新をしなくなるっつうのは本当で、

私のバンドのドラムの人も毎日更新するとか息巻いていたのは昔の話。

今ではただただ、ぼうと空に浮かぶただの塵になっておるようです。

では何も考えない日々、虚無的毎日を送っているかというとそうではなく

私は元気一杯日々何かを考えております。

最近では、

松本人志の新作「R100」がトロント国際映画祭に出品

地元紙において、最低点を付けられそれを肴に悪いインターネッツでは酷評の嵐といった模様を眺め

やっぱりか と顎を撫でている次第です。


彼に足りないのは何か?何故にこうも駄作を連発しているのか?

そう考える人も多いんじゃないかと思いますが、

これは非常に重要な問いかけであります。

つまり、

何故に良い映画を撮れないのか?という問いには、

潜在的に、良い映画を撮れて然るべきという思いがあるからじゃないかと

これはつまり、

100m走の王者ウサイン・ボルト

200m走でも王者でなければおかしいといった理屈でしょう。

現にウサイン・ボルトは200m走でも王者ですから、

何故に松本人志は良い映画を撮れないのかは大変な疑問です。


ではそもそも良い映画とは何か?

これは人によって様々な考え方があるはずのものですが、

簡単に言うと何かしらのフックがあるもの

引っ掛かりがあるもの そういったものが良い映画には最低限必要です。

そして、映画じゃなければ成立しないもの

映画だからこそ成立するもの この2つのどちらかが必須になるでしょう。


ハリウッド映画

そう聞くと今ではほとんどの人がアクション大作を思い浮かべると思いますが

それはたぶんビデオの普及と切っても切れない話なんだと勝手に想像します。

家の小さいモニターで映画を観る事が増えた事情から、

劇場で観る価値があるかどうか?という新たな価値基準が出来

その結果、ハリウッドでは大作系の映画が頻出する様になったのかもしれません。

むしろ、アクション以外の映画がふるい落とされたと考える方が自然でしょうか。


つまり、ビデオが普及する前よりも

現在では映画には、映画だからこそ成立する要素が求められていると言えます。

映画がヒットするハードルは高くなったと言えましょう。


それとは別に映画には豊富な賞レースがあって、

日本にはキネマ旬報の様な古くからある映画誌もあり

例え興行で失敗しても評価の高い映画はたくさんあります。

そして、松本人志の問題点はここにあります。

大衆にも支持されず、批評家にも見向きもされない

これではただの凡庸なゴミ監督と言われても仕方がありません。

簡単に言うと、引っ掛かりの無さが最大の弱点であって

ゴミ映画好き、B級映画好きの目にも留まらないというのは

非常に由々しき自体です。事件です。


映画は総合芸術と言われますが、

一番大切なのは絵・画であって

松本人志はこれが致命的に面白くない というのがあります。

黒澤明は映画の為に木を切らせたなんてな逸話がありますが、

実際、静的な「生きる」の様な映画ですら構図には様々な工夫が見られますし

羅生門」にも様々な趣向を凝らした構図があって

要するにそれこそが監督が観せたい画という事でしょうが

そういった画が一枚も無いというのは大変な問題です。


勿論そういった画が弱い監督であっても、

内田けんじの様に脚本を凝りまくって、脚本賞を取りまくるなんてな人もいる訳で

そういう意味で総合的に何にも引っ掛かりが無いというのは致命的です。


よく北野武との比較で松本人志を語る人がいますが

それは大きな間違いで、

本来比べるべき対象は、ローワン・アトキンソンであるはずでしょう。

ミスター・ビーンがあれ程ヒットしたのに、彼の映画は詰まらない。

そして、北野武も「みんな〜やってるか!」では失敗している。

そこに大きなヒントがある様な気がしますが、気のせいかもしれません。


松本人志は今現在4つの「みんな〜やってるか!」を撮った事になるのかもしれませんが

それでは誰もが、もういい加減にしろと言いたくなるはずであって

と「大日本人」しか観ていない私が言うのも大変な問題です。

大日本人も、バイクで山の上に向かうシーンなんかは寺山修司的な世界観も感じさせ才能の片鱗を伺わせたと思うのですが

これまた寺山修司映画を未だ観ていない私が言うなという話で

近いうちに「田園に死す」を観ようと心に誓ったのであります。 了