やせ我慢

津軽弁で言うところの「じょっぱり」とは、強情っぱりが訛ったものでして

津軽の人はじょっぱりだ といった話を聞く度、いやいやそんな事ないよと私は思います。

むしろほとんどの人がじょっぱりですな。

というのも、よく松本人志氏が言っていた言葉で

「辛いものが好きという奴に限って、辛いものを食べても辛くないという」

なんてな事で、かくいう私もハンドル工場時代に上司が大の辛党だということで

暴君ハバネロ知ってますか? いや知らない。って事で購入し食べさせたところ

辛くないですか? いや辛くない。

おいしいですか? おいしい。

とこういった会話をした経験があって、これこそつまりがじょっぱりな訳です。


私自身、CoCo壱番屋の10辛を2度完食した経験がございますが

辛さをマイルドにしようって画策しカツをトッピングしたところ

喉に衣がガシガシ刺さってくるという思いもよらない事態に

ほとんど涙目で、カツの一切れ一切れの処理をし

なんで食事如きに、こんなにも鬼気迫る覚悟が必要なのだろうと思った事があり

つまり、辛さというのは火傷であって、

基本香辛料が皮膚に付着すると火傷するのが人の体であって

それをば、辛くない辛くないと食べる人っていうのは

体が燃えてるのに、焼けてない焼けてないと言っているのと同じで

心頭を滅却し過ぎて、心の味覚障害になられていると言って差し支えない状態でございます。


では、そういったじょっぱる事のルーツはどこにあるのだろうと考えたところ

日本における幼児教育の柱である

男の子はこんな事で泣くな だとか、

男の子がいつまでメソメソしてるんだ という言葉で、

いつしか男の子は、人前で泣かなくなり次第に漢になっていくのであります。

泣きたい時でもぐっと堪える事、これが漢の美学でありつまりは、

弱音を吐かないよ

ピアニッシモなんてオカマ煙草は吸わないよ

ハウンドドッグをよく聞くよ

といった生き方を半ば社会に強制されながらに育ってきた私たちが現実にあり


では、そういったじょっぱりが発現されたのはいつだったのか?

と考えると、それはAV鑑賞会の場だったように私は思います。

友達のお兄ちゃんもしくは、先輩的な誰かがどこからか洋物ポルノを入手した場合

即座にそれはクラスの連絡網で隅々まで伝わり、

「今日、大樹(実名)の家でAV見るらしいよ」なんてな感じで末端構成員の私の耳に入った日には、

「どういうの?」と冷静を装い、そういうのも偶にはいいか的アンニュイでダルな感じを醸しながら

心は躍動、今にもパレードをしたい位の気持ちも

男の子はこんな事で動揺しないぞ と心に楔を打ち、

終業のチャイムが鳴るや、立ち漕ぎで友達の家に自転車を走らせるのであり、

いざ上映会が始まっても、

出来るだけシリアスにならないよう全員が全員へらへらしていて、

時々訪れる重い沈黙も、BGMに対するツッコミやカラフルなスパッツに対するツッコミで乗り越え

しかし、微妙に口数が少ない者をめざとく見つけ

おめーたってんじゃね?

と言った日には、

立ってねーよ と強がり、おめーの方こそたってんじゃね?となり、

たってねーよ たってんじゃね? たってねーよ などと、

勃起の押し付け合いが始まる。

立ったら負け

何故だかそういう気持ちにいつの間にかなり、

それが二次性徴時のトラウマとして後世まで残り、

例えば、

試験当日の朝も、昨日全然勉強してないと言い張ったり

タイタニックを見ても、泣かなかったと言ったり

ハバネロを食っても、辛くないと言う

そういう強がる漢の子が増える原因になっているのじゃないでしょうか