カロリー問題

情熱という言葉があるように、熱量の問題を我々日本人芸術家ないし表現者は抱えている。

黒人になりたい という言葉が、人種差別や迫害というものへの羨望であるのは間違いなく

簡単に言うと、怒りというものが持つ熱量への憧れがある。


松岡修造

と書いただけで、実際にこのブログのカロリーが高くなるというのは

松岡氏の持つ熱量が膨大である証左であるけれど、では彼は怒っているのか?というと

たぶん怒っているのだと思う。

むしろ、怒り以外で熱量を生み出す事が困難であるが故に、日本人の多くは海外に対して深くコンプレックスを抱える事になったのではないか

そういう風に推察する。

対人スポーツが芸術に対してより一定の人気があるというのは、

人と人がぶつかり合う事で生まれる熱量の担保が常になされているからであり、

負けたくない 勝ちたい という気持ちは、

憎しみや怒りと同一のベクトルの熱量を容易に生み出す。

そんな私は冷めた世代と言われる世代であり、

ドラムとベースは切れる世代である。

私達が表現するものも非情に低カロリーなものになりがちであり、

低血圧の人間が低カロリーな事をやっている

それで人に何かを伝えようとする事自体、甚だ疑問である。


有吉マツコの怒り新党という番組は、怒りを娯楽に昇華させた点で非情に画期的である。

それ以前であれば、極楽とんぼの喧嘩ネタであったりボクシングの試合前の挑発合戦などがあったりであるが

広く怒りを募集し、その熱量によって番組の推進力にするというのは発明と言っていいはずで

とかく私達は怒りを隠すのが良しとされてきた上に、

現在日本にある問題、環境問題・同和問題・いじめ問題・天皇問題・原発問題といったものを

歌のテーマ、絵のモチーフ、演劇の主題に掲げる事は非情に難しい。

何故難しいかというと、乙武パターンで分かるように

被差別者、被害者が怒り声を荒げる事は問題提議として非情に理に適っているが

それを第三者が代弁するとなると話は別であり、

結句、アイデンティティとして根本的に問題を抱えているかどうかが表現のリアリティを決めてしまう事になり

表現者が怒りを持つ事自体が難しく

故に低カロリーな表現が巷に溢れる事に繋がっている。

勿論、日々社会に怒りを感じない事はないので

その熱量を歌のテーマにする事は可能である。

しかし、私が

ジャガイモの新芽を取るのがめんどくせぇ」と歌ったり

「テフロン加工が剥がれたフライパンを捨てるのは忍びねぇ」と歌ったり

「折角帰省してライブをしたのに、打ち上げの最後の最後で空気をぶち壊した頭のおかしいスタッフは死ねばいい」と歌ったところで

漂うのは小物感であり、それはただのストレス発散じゃないかというのもあって

今日も明日もドラマの無い日常を歌にしては、

怒り新党を拝見し、ストレスの発散と相成ります。