初級会話講座

悪いインターネッツを拝見していますと、

会話において「否定から入る人は嫌われる」なんてな事を度々目にします。

しかし、よくよく考えるとどういう事なんだろう?という疑問がふつふつと湧いてきました。

「今日は天気が良いですね」

話したい事は無いけど、話はしたい そんな時のテンプレート的な導入ですが

これを否定から入るとどうなるのでしょうか。


「良くは無いです」


何という殺伐とした会話でしょう。

というか天気が良いと言った人は何故そんな嘘をついたのか。

全く意味が分かりません。


そこで気がつきました。

否定から入る というのはつまり、

だけど いや しかし 

こういった接続詞の中でも逆接と言われる言葉から入る会話が嫌われるのだと。


「今日は天気が良いですね」

いや、昨日はもっと良かった」


こういう会話であるなら、確かに嫌な感じはします。

私自身会話においては、出来るだけイレギュラーな返答をするようにしていますが

毎度毎度 逆接から返答が始まるのではげんなりです。


そこで会話が下手な人というのは、何故下手なのかを考えると

単純に人に対する興味が薄いからだと思うのです。

会話が下手な人は、会話が続かないなんてな風に言われますが

そもそも会話をしたいのに会話が続かないという人は、

喋るという事に重点を置いているから起こる過ちで、

良く何を話したらいいか分からない という人がいますが、

これはつまり、

相手に何を話してもらったらいいか分からない という事です。




例えば

「天気が良いですね」であれば、

「こんな晴れた日は何したいですか?」という質問をする事で、

相手が自分なりの答えを出すように促せます。

そこで仮に

「散歩とかしたいですね」という答えであれば、

自分も散歩が好きであるなら、

「私は川辺を歩くのが好きなんですよ」という自分にとっての散歩について話し、

嫌いであるなら、

「私は散歩が嫌いなんですよ」というのではなく、

「散歩ってあんまりしないんですけど、何が楽しいんですか?」とこの様にさらに相手に突っ込んで質問する事で

相手の価値観を更に掘り下げていくと。


簡単に言うと、当たり障りの無い会話であっても

会話というものは、自分にしか言えない事と相手にしか言えない事の交換であり

いかに個人情報を円滑にやり取りするかという点が重要であって、

「昨日のエンタの神様見た?」という質問であったとしても

見た 見なかった 面白かった 面白くなかった

こういった誰にでも言える意見というのは実際どうでも良く

小梅太夫が酷かったのであれば、どの様に酷かったかを自分なりに言う必要がある。


そして誰にでも言える事しか言わない人を、世間では

詰まらない奴 会話が下手な奴 あいつと話しても面白くない

そういった評価をする訳です。

何故なら、人とは誰でも自分の事を喋りたいからであり

そういった詰まらない人は、パーソナルな質問をしてくれず

喋りたいという欲求に応えてくれないからです。


まとめると、会話をする上で最も大切なのは

自分だから言える事

相手だから言える事

この2つが揃って初めて楽しい会話になるという事。

そして相手の個人情報を引き出す質問を投げかける事で、

相手を知り、自分も知ってもらう。


一緒にいる時間が長いのに、相手の事を何も知らない

そんな人は、会話の下手な人と周囲に思われているかもしれません。


これはツイッターやブログにも言える事で、

詰まらない呟きや詰まらないブログには、情報としての希少価値が無いのだと言えるはずで

それはそのまま私のブログにブーメラン

結句、

私は貝になりたいと思いました

チキショー