個性と没個性

今日は仙台郊外にあるどでかいショッピングセンターに行って参った。

そこはアウトレットも併設されたという点でイオンとは別な施設だけども、

退屈なショッピングセンターである。

何故こんなにも退屈なのだろうか という事を考えてみた。

巨大な施設の為に、様々な人間が多数来店する事を視野に入れている為に

いろんな意味で妥当性、汎用性に富もうとするあまり

トンガッた店、トンガッた商品ラインナップになっていないのではないか?という事。

これは、今のテレビにも言える事である。

そう決定的に思ったのは、そこにあるABCマートの商品ラインナップがあまりにも

しょっぱく一つをとっても欲しいと思える物が無かったからで

これは他のABCマートと比べるとより一層際立っているのである。

いくら大手のチェーンと言えども発注するのは店長であって、

そこには地域の事情に考慮した商品が選択されるはずである。

つまり、自らが進んで没個性的な地点に進んでいるのである。

個性の自殺と言っていい。

しかし、世間では個性個性とやたらと個人を主張する人々が跳梁跋扈としているのである。

故にどこの店舗にも客は無く、客がいるのは食堂と通路という

極めて不景気な光景がそこにはあった。

誰かの言葉にあったが、

無個性とも言えるユニクロ商品は中庸とみることが出来るが

全身ユニクロだとそれはまた極端である

そんな感じ感覚を私は受けた。

それは確実に普通じゃないよ と。

それはもう普通じゃない

普通そんなわけがない

普通そんなわけじゃないってとこまで俺は言う

そう思った。

そう思ったし、これからもそう思うだろう。

ビッグダディだってそう思うだろう。

俺はそんな人間だ。

そんな人間だってとこまで俺は言う。


この話の重要な点は、金儲けをしようとする余り逆に金儲けにならないという悲喜劇である。

いまいち良く分からないという人の為にさらに噛み砕いて言うと

みんなが欲しい物を置くとみんなが買うだろう

という前提がマスな物売りにはあって、これは間違っていない。

ただ、

みんながどれだけ欲しいか?という点が抜けているのである。

みんなが30%だけ欲しい物を100個も1000個も置いても、

今は不景気で誰も余分なお金を持っていない故に、

誰もが尻込みして買わないのである。

もっとトンガッた、

ある人は1%も欲しいと思わない商品でも、

他の誰かが90%欲しいと思える商品こそが今は売れるのである。

し、その位欲しいと思えないと物は買わないのである。

故にこういった店舗群は近いうちに全て駆逐される運命にあると言える。

次に来る形態は、より小さい店舗でも専門性に飛んだ

こんなもん誰が買うんや という物だけ置いた店であり

それが今の倍の数ショッピングセンターに入っていれば、

その中で、この店は自分の為にある様なもんだな という店舗も出現するだろうし

逆に、こんなもん誰が買うんや という物には面白さがあって

買うつもりが無くても覗いてしまうのではないだろうか。

今の状態は、通路から店舗にアクセスさせ さらに商品にアクセスさせるという2段階の手間があって

一段階目でつまづいているから通路にしか人がいない。

しかし、店舗自体がとんがっていれば

自然と店舗自体へのアクセスは増えるだろうし、店の中に入れたら後は

店の努力で商品は売れる事もあるだろう。


マスを相手にする時代は完全に終わった

これはつまり、音楽で大金持ちになる時代は終わった という事でもあるし、

全ての事に言えるだろう。

これからは、

濃密な狭い世界の時代であり、

さらに今出来る事は、その狭い世界を他の世界と繋げて

濃密な狭い世界がたくさんある大きな世界の構築であり

これからは万能な人間よりも、何かに特化した人間の方に需要が集まり

それが過ぎるとそれを束ねられる万能な人間が求められ

なあんだ 結局はバランスの問題じゃないか

と振り出しに戻る。