終わりが始まりのケツをキックして

今週のお題「2014年のお別れ」(2014年をふりかえる 最終回)

2014はここ最近の私の中では激動の一年であった。

死のうと思い、生きようと思い、色々思い今は元気いっぱいで新曲と戯れている。

私は聴いてくれる人がいるまでは、音楽を作り続けるのであろうな。

時代は混迷を極めてあるし、最早ロックはロックの意味を無くし

今では死体に蹴りを入れては、死んだ音楽でダンシング。


去年私が作ったMANYという曲は、

マイルス・デイヴィスの「Blue in Green」という曲のコードを

一捻りしてループ上の構造に作り変えた上で、ギター特有の響きでどや顔を決めたのであるのだけども

夏前に出た坂本慎太郎のアルバムで全く同じ進行の部分があって、

なんだか同じ方向を向いているようだなあと思ってあって、

独自の道 俺の道 俺の死に場所 そういったものを探して探して

ジャズの湯にひとっ風呂浸かって半年、

ようよう私の行く先が薄ぼんやりと見えてきた。


誰かを参考にしない事で生まれる独自性の怖いところは、

俺、俺、俺で進む為に

俺すげー、俺すげー となりがちな部分で、

俺が俺を後押しし、俺が俺に後押されて前進した結果、

その結果ちゃんと独自の道を進んであれば良いのだけども

悲劇的にその他大勢と同じ方向に向かっていた事もあって

エジソン

人と違う事を意識的にやる事と、

結果的に人と違ったものになったでは天と地の差、

ボブ・ディランホフ・ディラン程の差がある。


今先進的な音楽を作ろうとしている人の間で抱える問題は、

たぶんコードをどう鳴らすか という事だと思う。

コードの鳴らし方でカテゴライズされる現状が間違いなくあって、

かつてはそれがリズムであったのだけども

それはコードを鳴らす方法が限定的であった為で、

例えばそれがジャズであれば、ピアノがコードを担当し

それがロックであればギターに取って代わる今

何故フォーク・ミュージックに可能性が残されるかというと

最もフリーキーなコード表現がされてきた歴史があって

ジョニ・ミッチェルの音楽を歪んだギターで表現する事は難しい。

フォーク・ミュージックに向かうのは、

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが色々やり過ぎた為とも言え、

今後多くのロックバンドはエレキギターからアコースティックに持ち換え

色々と作品を発表するのは自明。

今はニューミュージック前夜、AOR前夜で

坂本慎太郎は丁度、ジェームス・テイラー的な位置にあるのかもしれない。

ジョニ・ミッチェルがフォークの後にジャズに傾いていくのと同じ事が起き

その結果、作曲技術がシビアに問われる時代が来て

私は大金持ちになり、世界は第三次世界大戦

その頃バイブルとして崇められる曲は、この曲だろう

それでは良いお年を!