100万回の手打ちビート

てんぽこてんぽこと手でリズムを打っている

こんな風に書くと実に手作り感、職人感があるのだけども

手打ちでぽこぽこしていて色々と気づいた事がある。

ちょっと前にネットで見た記事に、ニューヨークのジャズの影響を受けたJ-POPみたいな切り口で

色々と日本の裕次さんがいけしゃあしゃあと語っていたのだけども、

ビートを揺らす みたいな事はとっくの昔にフィッシュマンズが試行錯誤してあって

ほんじゃあそこに何か今だからこその視点はあるかっつうと微塵もねえ訳で

こりゃ駄目だつって 私はフライング・ロータスを買いに走った。

ビートが揺れる 

そんなもん人が演奏している以上ビートは揺れまんねんと

私は自身の揺れまくるビートに鼻水を流しながら

打ち込みすげえ と今更ながらに感心している。


フィッシュマンズがかつて言っていた事を要約すると、

ど頭の不自由さとケツの自由さ という2つの立場があって、

つまりは、シャッフルのコントロールである。

丼 丼 丼 丼 という4つのノンシャッフルビートがあるならば、

どんつ  どんつ  どんつ  どんつ

どーんつ どーんつ どーんつ どーんつ とする事が可能で

ケツの着地点に関して16分音符〜32分音符以上の精度で遊んでも

元々のグルーブを損なわない なんてな事が言えるっつう理論で、

つまりこれは突き詰めると、

一つのサウンドの中にシャッフルもノンシャッフルも同居可能だという事である。

最近のニューヨークにおけるジャズのビートのピントは

シャッフルかどうかという部分では無く、

もっと感覚的な部分で非マシーンビートである事の自意識がある様に私は感じていて、

その辺り手打ちでリズムを打ち込んでみて色々思った次第であるのであるのである。


何も考えずに1グルーブで延々同じリズムを刻んでいて、

さあ 新鮮なリズムが録れましたよつって聴いてみると、

自分でもびっくりする位ビートがびよんびよんで死にたくなるのだけども

はて、今のは何が悪かったんだろう と振り返ってみると、

ビート ビート ビートと頭の中はビート一色なはずであるのだけども

一瞬、ほんの刹那に

ビート ビート ビート たけし ビート ビートとなっていて、

全然集中していない。

気を取り直して録り直してみても

ビート ビート きよし ビート となって、全くダメで

ビート ビート 腹減った ビート ビート 煙草の灰落ちそう ビート

なんてな有り様で邪念の消える事が無く、

俺はマシーンだ マシーンだ マシーンだとリズムを産む機械として自己催眠をかけて望んでも

本当に一瞬 「そうだ、京都へ行こう」なんてな雑念が飛び込んできたりで

ビートが揺れない事が無い。

しかしながら、私はビートを揺らす為に手打ちしているのであって

あれ? このぐでんぐでんのビートで良いのかもしれん

なんてな持ち前のポジティブシンキングでずんずん進んでいったところ、

案の定 私の雑念が見事に録音に定着してしまって

近いうちに上げるであろう音源は、その揺れるビートに

雑念だらけやないか というツッコミは不可避であって

これで良いのだろうか と日々自問自答。