ジャズと戯れ見えてきたもの

私生活に不幸がニコラス・ケイジの如く舞い降りて、しばしお休みしておりました。

私は元気では無いものの、幸か不幸か音楽的には新たな興味が沸いてあったので

何とか生きておりますところ。

件の黄色いジャズの本をトイレで見ては、寝る時には最近のジャズを聴いて

日々ベースの練習に明け暮れる毎日であります。


そこで見えてきたもの

それは結局のところドラムだったのだなあ という当たり前の事実。

あとは宗教の強さ、コミュニティの強さ、それから音楽が生活の中で当たり前にあるということ

つまるところ、アメリカには教会があってゴスペルがあるが

日本にはそれに該当するものが見当たらないという事で

私は青森出身なので、当たり前の様にねぶた囃子を篠笛で吹き太鼓を叩けるのだけども

悲しいかなミニマムミュージック。


ここ数年、何故かレッド・ツェッペリンマイルス・デイヴィスを聴く夜が増えてあって

俺の親父化が進んだ と思ってあったのだけども、どうやらそういう事では無い模様で

結局のところ聴きたいのは、技術であるらしい。


例えば、ツェッペリンにしろザ・フーにしろビートルズにしろ

行き着くところはリズム隊の面白さである。

そう考えるとはっぴいえんど以降の日本のバンドでまともなものは、

フィッシュマンズくらいしか無いっつうのも、リズム隊故の話で

どうして日本の音楽が詰まらなく感じるのかという疑問も自ずと答えが出てくるのであって

それは単純に優秀なドラマーが不足しているというだけの事なのだけども

住宅事情や騒音問題を抱える我が国では、なかなかにドラムを叩く機会に恵まれない訳で

日本のドラマーの多くは、貸しスタジオで研鑽を積む事を余儀なくされる。

ところがベースもドラムも個人での練習は実に侘しく寂しいものであるので、

優秀なドラマーであるという事は、長らく孤独な修行僧の如き生活を経たものであるという事と同義であるのだけども

リンゴ・スターやたまのドラマー、加藤茶を見れば分かる通り

ドラムという楽器は、基本的に野球でいうところのキャッチャー的な役割もあって、

人間関係を円滑に進めなければならないという説があって、

道化を演じ、笑顔を絶やさず、冬でもタンクトップみたいな人間が好まれる傾向にあるのだけども

しかしながら、優秀なドラマーは修行僧であるので

寡黙で気むずかしく、襟を立てるみたいな事になりがちで

そうなるとバンドを組む人間なんてなものは、基本的に適当で軽薄な人間だもので

ちょっとドラムは下手だけども、タンクトップのあいつにしよう となりがちで、

結局のところ、ドラムが巧い人はバンドを組まず

そこそこのドラマーが巷に溢れるみたいな事で現在に至っている。

日本には教会でゴスペルを演奏するという文化が無い為である。


また、箱というものがアホみたいに作られ

用途が限定的になり、住み分けが進んだ事で

ロックはライブハウス、ジャズはジャズクラブ、ヒップホップ・DJはクラブなんてな事が当然で

故に横のつながりなんてなものが希薄で、ハプニング的な共演も無く

それが聴く人にとっても良くない状況を形成しているように思うっつうのも、

イメージ。全ては悪いイメージが根っこにあるからなのかもしれない。

クラブに行った事の無い私にとってクラブは、

刺青の人達が悪い薬で飛んでいる場所であり、

ジャズクラブは気難しいおじさん達が、

気難しい顔で4ビートに揺れている場所で

一見さんお断りの雰囲気を感じる。


と思っていたところ、私はよくよく考えると

フランス料理屋、カクテルバー、割烹 といった場所も恐怖で

なーんだ ただの引き篭もりの愚痴じゃねえか というのが分かったので、

これからは心機一転、外に外に上に上にと

ゴーイングマイ上に の気持ちで明日からまた自室でベースの練習に努めたいと思います。