黄色いジャズの本を読んで
本のタイトルにある通りにロバート・グラスパーから2000年代以降のジャズを読み解いてみたところ
どうやら行き着く先はグルーブということらしい。
結局それかい!と思ったのも、ロッキンオンが2000年に入ってからツェッペリンを表紙にして
ロックとはグルーブなり みたいな事が走馬灯だからなのだけども
そう考えるとロックもジャズも言葉に出来ないリズムの魔法みたいな部分で今戦っているのかなと思う。
簡単に言うと、譜面で表現されない部分に音楽家の関心が移っているのかと思う。
で、思ったのは
海外では軽やかにジャンルを超越していく様に見えるのに
日本ではそれがあまり見えて来ないのは何でなんだぜ っつう事で
これは日本の音楽家のリスナーレベルが極端に低い事も無関係ではあるまいとそう思ったっつうのも
日本でHIPHOPというとこれ半分以上が輩であって柄が悪い所か
体に色々な柄が入っているみたいな雰囲気がある。
で、
日本でレゲエというと海でタオルを振ってこれまた体に様々な柄が入っている雰囲気で
日本でソウルというとこれミーシャでディーヴァで歌うまいっすみたいな事で
日本でファンクっつうと岡村靖幸と久保田利伸とその他ってな感じで
で、
日本でジャズっつうと
女のピアニストが歌も歌いますみたいな感じか、
フリージャズですみたいな雰囲気で
フュージョンはっつうと、チェックのシャツを着てますみたいな人種が多く
結句、各々が各々のリスペクトに向かってそれしか見えねえ みたいな有り様。
まず、それぞれのジャンルでのファッションの違いが極めて高い壁としてあるのは間違いない。
ファッションが違うという事は生き方、哲学が違うという事で
J-HIPHOPとJ-レゲエが想定するリスナーは同一と見ても良いのだけども
しかしながら、やっている側にしてみたら
パブリック・エネミーとボブ・マーリィ程の距離があって、
更にジャズとなると、この国には若いジャズメンを育成する環境が整備されておらず
ジャズを演奏するのは吹奏楽上がりの人だけで、
当然ヒップホップだレゲエだソウルだという人達は野球部と相場が決まっており
ここにまず、運動部と文化部という高い壁がそびえるのであり
毎週映画について語るなんてなラッパーもいるにはいるのだけども、
人的交流がなかなかに巧くいかない感じがする。
アメリカの場合、教会、ゴスペルなんてな共演の場所が自然とあるのに対して
演奏する場所がクラブ、ライブハウス、ジャズバーと用途に応じて用意されている日本の環境だと
自然に融合が果たされるなんてな事は決して無いのは当然で
相対性理論がリミックス・アルバムかなんかを出した際に、結構メンツが揃った様に感じたのだけども
予想通り大御所が相対性理論を食いつぶすだけの事で、
本来、ロバート・グラスパー的な場所で人を繋げるべき菊地成孔もあまりそういうのに興味が無いのか
自分がご飯を食べるのに必死なのか分からんが吉報も入らず
様々なアーティストがファンを囲っては、情報を制限して
狂信者の育成に励むっつうのも見ていて苦々しい。
アーティスト側が、
俺のCDを買うのは後でいいから、とりあえずみんなペット・サウンズ買いなさい
くらいの事を言えない、言わない状況が
多くの音楽ファンが新譜を買わなくなった原因だと私は思うのだけども
タワレコに行くと意外にみんなCD買っててびっくりする。