電気の春は0と1の夢を見るか

今週のお題「春になれば」

青森県民、通称田舎もんにとって春が来たという事は文字通り春が来たという事で

止まっていた時間がようやっと動き出す時である。

青森が産み育んだ太宰治、通称鬱モンスターも青森の日本海側という過酷な気象風土によって

ああいった形になった訳で、それくらい青森の冬は厳しく寂しい。


私が面白いなあと思うのは、物体は温度が下がると活動が少なくなるというもので

絶対零度になると、物体は活動を止めるのだけども

木に雪が降り積もり、風の無い日などは本当に時間が止まった様に静かで

町全体が活動をやめたみたいな感じになる。

科学的に正しい事を肌の感覚で理解出来るというのは不思議である。

寒くなればなるほど、時間はゆっくりと静かに進む感じがあるのだけども

この感覚も軽い走馬灯をいつも見ている様なものかもしれない。

雪は平等に降り積もり、様々なものを隠すが

私たちは度々側溝に嵌る。


雪は道という概念を曖昧にし、道から外れた者を容赦無く側溝に落とす。


汚れた悲しみに小雪は積もるが、

その小雪もまた汚れてしまう事をわたしたちは知っている。


冬は外にいる事は出来ず、冬に外にいる者は何かしらの理由がある人だけで

それが無い者は家にいる。

寒いから家にいるのだけども、家が安全かというとそうでもなく

大体ストーブで火傷するし、薬缶も危険だし風呂場で命を落とす者も少なくない。


それでも過酷だからこそ、人は多くの場面で助けあっている。

雪で車が動かなくなる事は日常的にあるが、それを助けるのは多くの場合

通行人であり、近くの家の者であり

人を助ける為に牽引ロープを常に車に携帯しておく人も多いが、

自分の力ではどうにもならない状況というのがあるという事があって

それを皆が助けあって乗り越えていくのである。

車高を低くして粋がっている兄ちゃんも、

雪に足を取られれば車は走らない。粋がったところでどうにもならない。

そういった経験を経て人は人に優しくなれる。


春は許しの季節である。

過酷な冬から開放され厳しい冬から許されるそんな季節である。

雪が溶けると共に緊張も解けていって、

凍った川が流れだすと共に、水の音が響き

止まっていた時間が動き出すその瞬間は、

様々な束縛から自由になった歓喜の歌であり、

春が来た という感覚は、雪が降る地域とその他では天と地程の違いがあるだろうと

思い候