最近薄ぼんやりと考えていた事

ロキノン厨がおすすめ曲をアーティストごとに貼るスレッドなんかを薄ぼんやりと眺めて

センスという言葉も罪だな 災厄だなと思った。

ここ最近、才能という言葉を今一度噛み締めていたところ


白紙の小切手を渡されたと仮定して、そこにいくらと書くか?


そしてその金額の大きさがそのまま才能と呼べるんじゃねえのか

なんてな考えが頭をぐるぐるしていて、

才能の正体捕まえたり と得意な顔をしている。

天才と呼べるような人は、平気で余白が無くなるまで0を書き続けられる人であろうし

そうでなければ天才と呼ばれる様な偉業は成し遂げられない。

秀才であれば相手の懐具合を鑑みてギリギリ引き出せる金額を悩むものだろうし

凡人であれば、より現実的で常識内の金額に留めるであろう。

と思考を進めると、結局のところ


欲の深さ こそが才能だと言えなくはなく、

そう言い換えてみると、実に陳腐で何の驚きも無い通り一遍の考えの様な気がしてきて

早くもブログの着地点を誤ったという限りなく現実的なフィーリングがあって

ではではセンスといふものを考えてみようなんつって、

センスとは実に曖昧な言葉であるよなあ

というか、ありますよね?と伺いたく思いますが、どう思いますか。


例えば、ゴッホをセンスの良い画家だと思う人はいないと思う。

というか、大芸術家と言える様な人を捕まえてセンスが良いなんてな表現は

大分高みからの物言いの様で普通は控えたいものであるがしかし、

音楽の場合はさにあらず。

センスの良いバックトラック、センスの良い音、選曲がセンス良い

とかなんとか言って、世間はセンスで溢れている。

しかし、ベートーベンをセンスの良い作曲家と言わないのであるところからみると

結局のところ、ロック・ポップスというものは

基本的にはブレンド具合を楽しむものであるという領域を中々に出ないものであると言える。

つまり、センスとはバランス感覚の別称であって

これを珈琲で例えて言うと、

センスの良いブレンド という形容は成立するのだけども、

センスの良いブラジル という形容は成立しないという事であって、

これは実に嘆かわしい。

そして難儀である。

バランスとは東西南北の中心に居座るという事であり、

センスを磨くという事は、全方位的に知識を深めるという事と同義であって

例えば、

澄ました顔で流暢なポルトガル語ボサノヴァを歌う小野リサなんてな人がいるが

一時、これが流行した際も

ボサノヴァ=センスが良い みたいな雰囲気があったけれども、

よくよく考えてみると、

流暢なポルトガル語ボサノヴァを歌う日本人っつうもの自体、

大変に極端に吹っ切れた状態であるのは間違い無く、

これは逆に言うと、

ウーピー・ゴールドバーグが和装で文金高島田で尺八を吹いているくらい吹っ切れたものであって

そういう観点からいうと、全くもってセンスが良いとは言い難い。

当然、芸術というものは極端であるという事と同義なので

それ自体を間違ったものであると断罪する事は出来ないのだけれども、

これはあくまで一例であって、

それが仮にロキノン系であっても同じなのである。

以前に見た言葉で、

ユニクロはブランドロゴも無く、何の特徴もない実にシンプルで普通な服であるが

全身をユニクロで固めた場合、それはもう普通じゃない

なんてな事が言ってあって私は感心した。

普通も突き詰めれば異常になり得るのだなあと思った。

という訳で、ハナエが歌って踊っている動画は非常に可愛らしいものであると思ったのだけども

それを聴いてノリノリでいる自分を私は許せない気がしたので

そのスレッド自体見るのをやめた。

そんな日曜日の朝。

続いての曲は、ヴェルベット・アンダーグラウンドサンデーモーニングをお送りいたします。