ゴーストライター問題が提示した問題

私が現代アートにげんなりしたのは、

絵よりも注釈に重きを置くその有り方であったが、

逆に言うと、注釈に重きを置かざるを得ない状況が厳然とあって

経済的の理由から致し方なくっつうか、それこそキュレーター含む

芸術家とその作品で飯を食う人々の怠慢とも言えない事も無いその状況

別の言い方をするなら、いつまで経っても鑑賞者の目が肥えていかないその現状

そういった周囲の状況を踏まえて、いまいち楽しめないっつうのがあって

で、ゴーストライター問題でも思うのは

音楽ライターのほとんどは、糞みたいな駄文を芸術作品であるCDの歌詞カードに付随する解説とやらに披露して

糊口を凌いだりするのだけども、

ほとんど全てと言って差し支えないくらいに、

アーティストの来歴と歌詞に言及する程度であって、

言葉で音楽のその本質に迫ろうとする評論家なんてのは、ほんの一握りどころか

個人的には、渋谷陽一のプリンス評論、ゼップ評論くらいのものしか目に入らなかったっつうのも

優れた評論が発表される場所自体が極めて限定的だったのだろうつって、

それはまあこっちの怠慢なので、許してちょんまげなのだけども

今回の佐村河内というけったいな名前のおっさんの場合も

やれ全聾だ被爆二世だっつう注釈ばかり有難がって、

音楽そのものに迫ろうという気概を持った評論家はいたのか甚だ疑問。

といって、「HIROSHIMA」という曲名は私の耳にも当然入ってあって

まあ、メディアが有り難がるものに対して

私は常に懐疑的であるので、未だに聴いてない怠慢ぶりなのだけども

クラシックから現代音楽という道程を経るにも理由はあって、

今更既存のフォーマットで何が出来るねん という諦めと低体温から

その時点で怪しさマウンテンゴリラなのは明白。

しかし、問題の本質はやはりそこでは無く

音楽それ自体の評論をしてこなかった事こそが問題だろうと私は思う。

「HIROSIMA」が本当の意味で名曲であるならば、

聴く人にとって誰が作ったのかは全く問題ではなく、

それであーだこーだ揉めるのは、単純に報酬の問題であるはずで、

ここまでの問題になったのは、

全聾、被曝二世というコピーを使ってお金儲けを企んだ輩が多数いる事と

まんまとそれに引っかかってお金を落とした被害者が多数いる事からであり、

また、その被害者が全聾、被曝二世というコピーを使って更なる被害を拡大した事で

良いファンという確約されていたであろう立場が一転、

悪い業者と同じサイドに立たされるというほとんど悪夢の様な展開が待っていた事も含めて

私の様な完全部外者から見ると、非常に滑稽かつ

人生の縮図の様な悲喜劇がそこにあって、

朝6時にチキンナゲットを手ずから揚げるくらいに、飯が旨い。