ジョン・ケージの腹筋

ぽーっと、怒り新党を拝見したるところまさかの3大ジョン・ケージ

知らない人に簡単に説明すると、ジョン・ケージというのは

世界二大ケージの一人で、もう片方はニコラス・ケ−ジであるのはご存知の通り。

世の中を切って斬りまくる有吉もマツコもポカーンとしていたが、

まあ一般的にはそんな風に映るだろう。

ある意味ではそういった反応が出来るというのは幸せな事で、

何が凄いのか分からん 死ね という人にある程度分かりやすく説明すると、

芸術というのは、極々狭い範囲で評価され消化されていくというのがあって

その理由の一つに、収入の問題がある。たぶん。


今現在の大衆音楽や映画、小説の様に、広く作品を流布し

多数の人間から少額のお金を集めるといった手法は極々最近のやり方であって

例えばピカソの様に有名になった画家であっても、

彼の貯金通帳には大口の入金が少数あるだけであって、それはつまり狭い世界で大きなお金が動いているという事に他ならず

作品を直接的に受動する人間、この場合は金銭的なやり取りをする人間は限られていて

作品もそういった人間に評価される様に作られるのは自明である。


今現在の大衆音楽の状況も正にこういった有り様になってきていて、

CDが売れない時代の音楽家は、それ以外でのお金の集め方を考える。

作品でお金を取れない為に、演奏会でお金を集めるというのは至極当然の帰結

ジョン・ケージも正にそういった状況にあったのだろうと考える。

そして、音楽の概念を変えたのであり

概念を変えたところにこそ彼の功績がある。


譜面というものは、音楽をコントロールするものである。

これは譜面というものが持つ機能であり、譜面さえあればその音楽は再現性があると言え

譜面の通りに演奏すれば、誰もがその曲をその曲だと認識出来る。

そういった概念に、

演奏者の肉体的な動きを取り込み、かつ偶発的な要因を取り込んだ事で

譜面の通りに演奏しても、再現性が極めて薄れる自体が発生する。

場合によっては、同一の譜面であっても同一の曲だと認識出来ない場合がある可能性がある。

これが、譜面というものの持つ機能を否定し概念を変えたという事である。

また、演奏の模様を見た人は分かるだろうけど

演奏者がステージ上を動き、様々な動きを見せるが

元々、楽器を演奏するという肉体の動きは極めて限定的な動きしか見せないのに対して

楽器では無いもので音を出す事は、肉体の動きに対してそれを制限しない。

これは楽器の上達が不可逆的に洗練を求める事に対する概念への挑戦とも言え、

簡単に言うと、

ピアノを巧く弾きたいという向上心があった場合、

速く弾きたい、正確に弾きたい という人間の思考のベクトルは

肉体の物理的限界に挑んでいく事になる訳で、

自然とある一定の形に帰結していく事になる。

物凄く速くピアノを弾かなければならない場合は、

肉体は速く動かなければならず、筋力も持久力もその演奏には要求され

演奏者は不可逆的にある一点に着地する。

それは、人間がロボットになろうとする様なもので

人間は本質的に一個一個が違うものだという考えとは異なり、

イングヴェイ・マルムスティーンであっても、クリス・インペリテリであっても

そのギターを弾く姿勢、指の動かし方に大きな差異が見られなくなってくる。


ところが、それが楽器では無く

バケツの水をひっくり返すなんてな事になると、

そもそもバケツの水をひっくり返すプロなんてものは存在しない為に

洗練されるという事が無い。

それはつまり、観客が比較対象を喪失すると言ってもよい状況であり

有吉が言った

ドリフのコントでありそう

という言葉も、的を射ていると言え

つまり、音楽の演奏会であるのにその比較対象が演劇やコントになっている点は

正に、演奏会というものの概念を変えていると言える。


ジョン・ケージは、楽譜を脚本に変えた と言っても良いのかもしれない。


こんなの素人の俺でも出来るぜ なんてな感想を持った人もいるのだろうが

では、

プロのクラシックの演奏家を複数人集めて、耳の肥えた観客を大勢集めて

観客から高いお金を取った上で同じ事が出来るだろうか。

それが大友良英ジョン・ケージの最も大きな違いであり、

概念を覆された以降の世界では、

楽家にとって

4分33秒の沈黙はあまりにも長く、重く響いてくるのである。