だから ゆく

休憩時間に三島由紀夫の不道徳教育講座を読んでいますと、

初めて読んだのはもう忘れたけれど、読みながらに色々な事を考えるようになったもんで

へー なるほどー そうなのかー

と感心しきりだった私はもうおらず、インプットしながらにアウトプットを弄る様な感覚があるのでした。

悪口を言いなさい 的な章で、

批評家は作品を批評する際、どうしても作者の見た目

この場合は、作者自身の様々な情報を指すのでしょうが、

そういったものに影響されるとありまして、なるほどと思ったのでした。


よくよく考えてみると、

私が愛する音楽家3人つまり

マイルス・デイヴィスブライアン・ウィルソンレナード・コーエン

三人とも、作者と作品の乖離が非常に少なく

故に私が心底から大好きなのかもしれません。


作品と作者は切り離されて鑑賞するべきだ なんてな言い方がありますし

私自身、モダンアート・コンテンポラリーアートにおける

一枚絵よりも注釈の価値が高い芸術には、嫌気がさしますが

作者の人間性がそのまま作品に昇華されている様な作品には、安心感があり

逆に作品そのものが作者と同じものですから

無駄に作者の事を考えなくて済むのではないかと思います。

例えば、

コーネリアスという小山田圭吾的なものがおりますが、

彼の音楽は時に楽しく美しい部分もあり素敵ではあるのですが

彼が小さい頃にしたという非人道的ないじめの事を考えると、若干気分がめげる事もあって

確かに、作者の人間性と作品は別個のものでありますが、

ふと作者の事が頭によぎると、作品が良いばかりにその落差で、

耳がキーン 脳味噌バーン となるのも又事実で、

それはつまり、作者が作品の質を落としていると言えない事も無い訳です。


作品と自分を切り離している作家も多々いますし、

それはそれで良いでしょうが、

私は、作品というのは自分の一部を切り落とした分身であると考えますので、

作品を産み落とすというのは、非常に恥ずかしい行為だと思うのであります。


先日、松本人志について書きましたが

彼の作品には、そういう意味で強烈な恥の部分が無い様に感じます。

北野武は、恋愛映画や青春映画も撮りながらどうやって自己を作品に投影するか?を考え

自身の絵を映画に登場させるに至ったのではないかしらと思います。

勿論、監督が主演するというのも強烈な恥を含みますが、

フライデーを襲撃するに至った北野武と、スクリーンで暴力を振るう北野武の間に

それほどの齟齬が見られないのも、作品の質に深く関わっているのでしょう。


そんなこんなを思った明け方でした。