動物愛護の精神と時の部屋

ある日 つまりはワンデイ、森の中 つまりは インザ・フォレスト

熊さんに出会った つまりは、

アイシーザ モンスター。 出会った日が命日よ と。

この歌が一番しか無かったとしたら、これ程怖い歌は無いもので

ある日森の中熊さんに出会った。花咲く森の道熊さんに出会ったと

出会いの記述はあれど別れの記述が無い 即ち、ダイイング・メッセージであり

出会ったのはヒグマと推察される。

なんてな事を考えていたら、2番・3番の歌詞も十分に怖く

二番ではお嬢さんお逃げなさいとアラートを出しておきながら、

三番で後から付いてくるとあっては、ただのホラー。

最早そこには戦慄しか無く、真っ白なドレスが血に染まるのも時間の問題である。

やはり野生の熊。論理が通じない。

と、童謡においてすら熊の怖さは轟いていて

彼らにとって私達は食物でしかない。


先日、シー・シェパードがおっとっとのイルカの形に難癖を付け回収騒ぎになった。

流石に、野生のイルカとお菓子のイルカの区別は付いていると思いたいが

こういった動物愛護団体の倒錯は興味深い。

そも生物は他の生物の生命を頂いて生きる事しか出来ないのであって、

イルカや鯨を食べてはいけなくて、マグロやサンマは食べていいという理屈は通らない。

結局のところ、地球にとって一番邪魔なのが人間なのだからし

死ぬか、テクノロジーの無い場所で生きるかしかない説が浮上してくる訳で

と考えると地産地消だけが正義なんだなと思えてくる。

つまり、象牙を取るために象を殺したり

毛皮の為にミンクを殺したりというのはたぶん現在では禁止されているが

先住民族のほとんどは、生き物の肉を食い皮や牙をも生活に役立てる訳で

例え牙だけ取られた象の死体が転がっていたとしても、

永遠にそこに横たわっているかというとそんな事は無いはずで

そこに住む細菌、微生物、昆虫の糧になるのならば決して無駄な死とも言い切れず

となると問題は、生態系に対しての影響と絶滅の危惧だけであって

つうと、結局のところ人間がいるだけで生態系に悪影響だろう事は想像に難くなく

勝手に絶滅した恐竜に対して罪悪感を持つ人がいないように、

人間の所為で絶滅に追いやられたとしても、人間が絶滅する訳にはいかんよね 

なんてな理論でもって、絶滅するものは絶滅していく。


そうなると動物愛護団体というのは、何の為に存在しているのか分からないが

まあ平たく言うと、私は猫好きですないし私は犬派です程度の表明にしかなっていず

つまり、シー・シェパードという団体で言うなら

海とシェパードとイルカが好きな人達の集まり なのだろうし、

それ以上でもそれ以下でも無いとするなら、案外やっている活動に対して

好意的に受け取れる様な気がするのだけど

批判しようと色々書いた挙句の擁護に着地。自分でも不思議だけど

どこかに論理の飛躍があったのだろう