木村拓哉の宝くじのCMがむかつく理由

まずはご覧あれ

最初から最後までうざい稀有なCMである。

そして、最終的に前半部の必要性の無さに気づき後味もうざいという奇跡のCMだ。

私はあんなに好きだった木村拓哉が少し嫌いになった。


では何故これ程不快感があるのかと考えてみると、

まず仕掛けの青木さんの戸惑い及びダルな感じが目に付く。

それを生み出しているのは、

馴れ馴れしい木村拓哉の押しの強さであるのは明白で

そんなにゴリゴリ来るんじゃねえよ という気持ちが青木さんに生じるのを見て

いわゆる一般人である私達と青木さんの間で無言の同盟が交わされるのである。


これが第一の不快の原因で、そしてこのCMが企画された段階で

青木さんは出演を了承しているはずで、本来ならもっと嬉しいはずであり

なのに、どう考えても嫌々テレビに顔を晒している様に感じ

これが非常に解せない。



第二の不快は、

「歌ったり踊ったりするCMは多いからやめまーす」の

「やめまーす」部分に感じる暴力の匂いである。

しかしこれは似非暴力であり、商業的破壊行為だ。

ポジティブパンクと言い換えてもいい。

やめるんだったらやる、やらないんだったら初めからやらなきゃいい。

こういった問題は、作り込まれた作品には必ず生じる責任であり

映画「大日本人」が酷評されたのもこの点である。


つまり、これは茶番に対する怒りだ。

出来レースと言ってもいい。



残る不快は、木村拓哉のイメージ戦略の匂いに対する嫌悪で

今回のテーマは、タメ感である。

スタッフとも普通に仲良くやってまっせ というイメージを広報する事で

誰にでも別け隔てなく接する器の大きさを流布しているのであるが

しかし、それを青木さんが望んでいないのが透ける事で

裸の王様、ライオンハート的雰囲気が生まれてしまっている。

影で木村拓哉の愚痴を言っているのは明白であり、

むしろ木村拓哉可哀そうと感じさせる。

これがやるせなさ、諸行無常を生み

青木さん可哀そう、木村拓哉可哀そうと

可哀そうの二乗がCMを支配するのでは、どう考えても宝くじのCMには相応しく無く

そら不快にもなるわなあと小首を傾げ。