登山と私

栗城史多という自称登山家がいる事を知ったのはつい昨日の事でした。

調べてみると非常に現代的な問題点を多く含んだ人物で興味深かった。

といって、私自身登山には縁もゆかりも無い人生で

唯一私と山を繋ぐものはといえば、パタゴニアのアウターくらいしかありません。

しかし登山という行為や登山家という人種の事は気になっていて、

孤高の人という漫画は好きで読んでいました。


何故登山に惹かれるかといえば、芸術と非常に近い感性を感じるからだと思っています。

現代を人間が生きるうえでやらなくて良い事、それをあえてやるという事は

生きる意味を自分で創りだすという事であって

全ての人が、会社で仕事をする為に生まれてきた訳では無いと自覚しながらも、

結局、会社で仕事をする事に人生の大半の時間を捧げなければ生きていけないという悲しさがあって

それが一億総鬱と呼ばれる要因だと私は睨んでいます。

山に入る事で一旦、ほんの束の間文明から切り離されるというのは

普通の人には選択し難いほとんどファンタジーの世界であり、

他人にはどうでも良いと思われている事に対して命までかけてしまえるという事に対して

私は畏敬の念を抱いています。


そこで件の栗城という人の経歴や発言を見てみたところ、

んー こいつは面白いなと思った訳です。

野口健という自称アルピニストがいますが、先日イモトアヤコの登山についてのツイッター

若干のボヤ騒ぎがありました。

彼についての問題点は、アルピニストという肩書きを登山家に変えれば済むような気がしますが

栗城さんに関してはどこから手をつけて良いのか分かりません。

詳しく知りたい人は http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/

読み物としても面白いと思います。


で、それについて考えた事はというと

インターネッツの怖さと、自浄作用についてです。


テレビや新聞のマスメディアの力はもうそれ程意味を無していないばかりか、害悪になり果てていて

ではインターネッツが力を持っているかといえば、力はあるけれど方向性や統制力に非常に難がある感じで

まあ 簡単に言うと一次ソースというものが圧倒的な力を持つ事になった反面

それを伝えるのはやはり、新聞とかテレビの大手メディアではあるんですけども

そこに付随するキャスターのコメントや編集は重視されなくて

つまりは、

印象操作というものが完全に力を無くしたのだという事だと思います。

これは、受け手が成熟したという事でもありましょう。


で、栗城君の失敗点はというと


実力が伴っていない これに尽きると思います。

実力というものは、言い換えれば説得力な訳です。

例えば映画「ベック」において、ギターの天才という人物がギターを弾く場面で

ギターが下手だった これでは説得力がねえよという話なのです。単純に冷めます。

ちなみに映画版ベックは見ていませんが、完全なイメージで言ってみました。

しかし、実力が伴っていないながらも

実際 大金をかけ山に登っていますので、ある意味ではその挫折の様が面白くもあります。

最近知ったばかりではありますが、

今後の動向を注意深く観察したいと思います。