知識との付き合い

古来より知識のある人は偉い人とされてきた。

今現在でも馬鹿よりはカシコの方が良いという価値観はある。

ただ情報がここまで浸透しかつ簡単にあらゆる情報にアクセス出来るとなると

そこには編集者的なセンスが求められる。

雑学というジャンルの知識が人を惹きつけるのは、

ほとんどの人が好奇心を掻き立てられない故に知っている人が少ない情報であるからであって

これは需要と供給の穴に価値がある。

例えば、

床屋にとって技術を測るのに最も適した髪型は角刈りである。

という知識は、髪型という衣食住でいう衣であり多くの人にとって逃れられないものであるのでポイントは高い。

多くの人が関わるものであるのに、そこまでの好奇心が無い為に普通は得られない知識

これが盲点的な穴である。

雑学を多く知るという事の価値は、

多くの事に好奇心があるよ という暗黙の誤解がある。

トリビアの泉や所さんの目が点、ためしてガッテン等は

そういった多くのベクトルの知られざる知識を得るという点で良質なものだった。

ところが最近はより良質な識者が求められていると私は感じている。

雑学はやはり知識というジャンルの中では異質のものであり

知識がより浸透した状態でこそ真価を発揮する。

価値の変換がそこにあったのだと私は感じているし、原因として考えられるのは

まず、ゆとり世代の台頭で

悪いインターネッツの世界でそれは顕著に見られる。

それから、原発事故が知識というものの価値を大きく変えたのだと思う。


原発というものは政府が主導で行った事業であり、

安全安心、クリーンなエネルギーとうたってきたものであるが

いざ大事故を起したとなると

安全じゃなかった 安心出来るものではなかった クリーンでもなかった

と政府に騙されたという思いを多くの人が持ったと思う。

では何故騙されたかというと、

単純に知識が無かったのである。

そして興味も無かったのである。

原発がやばいらしい そう分かった時多くの人は不安に思っただろう。

そして、その不安の原因は知識が無い事に由来する。

そこで多くの人が知識の大切さを身に沁みて感じたのではないかと思う。

震災から一年経ち、

原発問題、橋下維新の会や竹島尖閣問題、従軍慰安婦の問題と

多くの問題があるが

その全ての問題に対して言えるのは、知識があるか無いかが世界の見え方を変えてしまうという事で

それは世の中のあらゆる事について言える。

故に相対的に知識の価値は上がったと言えるし、

情報においても、量よりも質が問われるようになったのだと思う。

そして質を見極める為の技術を持った人が

これからの世の中重宝されるのは間違い無いと

こねくり回した挙句にいつもの当たり前の着地