南三陸を見てきて考えた事

先日わたくしのバンドのドラムが被災地を見たいと言って家に来た。

私が車を運転して石巻から南三陸までを回っていった。

彼が一番心を動かしたのは、車が積み上げられた光景だったようだ。

ネットでは見ていない

聞いてないよ

そんな事を言っていた。

私達は被災地のシンボルとも言えるような、仮説のコンビニやなんとか商店街とかいうのを丁寧に回ったりしたが

私は

青森の奥入瀬渓流みたいな所があって気になって車を止めてじっくり見てみたら

川の側壁が剥がれ落ちて瓦礫になっていて

元々は普通の人工的な川だっただろう事が簡単に分かる光景に心が動いた。

綺麗だなと思ったものが、

破壊された人工物だったというのは出来すぎなイメージかと思われるだろうけど

実際そう思ったのだからしょうがない。


また、

道を誤って人気の無い所にずんずん進んで行った先に仮設住宅があって

いきなり人の気配が出現した時には

何だか来ては行けない所に来てしまったという罪悪感を感じた。


人が排泄している所を見てしまった時のような、

本来隠されるべきプライベートな部分を覗き見た様な気持ちだった。

実際、彼らには彼らの生活がそこにあって

興味本位で訪れた私達は歓迎されるべき存在では無いだろうけれど

自分の目でそれを見る事によってでしか感じられないリアルというものがあった。


車で訪れたという事からも、それは地続きなのであって

私達がいるこの場所から続く道の先に普通に被災地はある。

そして普通に瓦礫の山があって、普通に更地がある。

海に程近いところにある珈琲神社というカフェがあって

そこで私たちはcoffeeを飲んだ。

場違いな程においしいcoffeeだった。

そこから見える夜の海はただ静かにそこにあった。


ドラムの彼とはたくさんの話をした。

一時 険悪な雰囲気になった事もあったがここで言わせて頂く。

議論をする際に私はたくさんの意見の提示をするし、一見自分の意見を否定されたと感じる事もあるだろう。

しかし、日本人の多くが議論慣れしていない事や議論の機会が少ないので

そういった場合不快感を示す事が多々あると思うのだけど

意見の否定は人格の否定では無いのだという事を理解するべき。

例えば、

イチゴが好きな人と嫌いな人がいるとして

イチゴ嫌いな人が「あんなもの食うなんて信じられない。食う奴は脳みそが腐っている」

これは意見と人格を否定しているけれど

「あれを食べてもおいしいとは思わない。どこがおいしいのか説明してくれ」

これは意見の相違を埋める為に欠かせないプロセスである。

その際に、説明するのが面倒くさいという態度や

うまいんだからうまいというのでは、コミュニケーションの拒絶である。

現在自覚的に勉強している人間は、

知識を得ているのであって、それは使われるまでは意味を成さない。

その使うべき時というのは様々あるだろうし、相手も選びたいだろう。

しかし、知恵やアイデアというものは本当に思わぬところからやってくるのである。

こいつは馬鹿だから話したくないだとか、

説明するのが面倒くさいとかそれは相手に如実に伝わるものだし

折角のアイデアの機会をみすみす逃すのは勿体無い。


驕った人間程醜い者はいない

謙虚さは余裕の裏返しでもある。

とそんな事を考え

自分自身謙虚にならねばなと気を引締め

頑張るドラムの人を全力で応援しています。

それから読んで下さった皆様にも幸福と幸運を祈って