努力は無駄

最近2ちゃんねるという悪いサイトで

努力は無駄だぜ という趣旨のスレッドを度々見かける。

中二病特有の俺は悟ってるぜ感がひしひしと伝わってくるので

たぶん若い子がそういうスレッドを立てるのだろうと思う。

今現在、努力について考えるという事は

裏を返せば努力して来なかった自分というものを正当化しなければやっていけないという事で

努力はして来なかったが、そんな自分を認めて欲しいと

そういう切実な思いを感じる。

努力は無駄 という言葉には、見る前に飛べなかった者の羨望がある。

良く言われる言葉に、

本人はそれを努力だと思っていない というのがあって、

これはほとんど本質を言い得ている。

つまり、他者から見た場合の努力と自分がしている努力ではかなりの温度差があって

それは私の見たところ90年代初期では常識であった様に思う。

それが盛んに努力努力と言われだしたのは、

有森裕子の「自分を褒めてあげたい」発言以降で

それが進化して、自分へのご褒美という概念になり

昇華した形としてOLの風呂上がりのプディングという形で世間に定着したのではないかと思う。


例えば、

アスリートが散々練習して、結果が4位だったとする。

これに対して、あなたの努力は無駄でしたねと言うのは大分ずれている。

それにかける言葉があるとするなら、

あなたの努力は報われませんでしたね であって、そこには大きな差がある。


で、その反論として

報われない事の方が圧倒的に多いのだから、やっぱりそれは無駄だという論理で

たしかに物事を俯瞰で見れている気がしないでもない理論ではあるが

そこには圧倒的に欠けている視点がある。

それは当事者の視点であって

当事者にとっては、報われるかどうかはやってみなければ分からないのである。

その上で更に言うなら大枠では勿論、認められたいという願望はあるものの

それを突き動かす動機に関しては様々あって

それは突き詰めると根源的な欲求と違わない。

つまり、

お腹が空いたからご飯を食う と

1位になりたいから練習する に有意な差は無い。

やりたいからやる

ただそれだけの事がそこにある。

それを他者がどうこう言う事に意味はないし、

やっぱり努力は無駄だよな という言葉は

私とあなたの価値観は違うよね という当たり前の事しか言っておらず

例えるなら、

ヤンキーに対して

ジャージってダサイよね と言ってるのと本質的には同じ事であり

ヤンキーサイドにしたら、いや 俺はカッコイイと思って着てるんだからほっといてって話であって

結論としては、

ジャージ文化とスウェット文化っていつの間にか同居してたよね であり

ブログに書くネタが無いっつうのは、悲しいよねという事である。