虚構と現実についての考察

人がたくさん死ぬ映画が好きだ

と言うときっとみなさん眉を顰めるだろうが、好きなものは好きであって

世が世なら思想犯テロリスト予備軍のレッテルを貼られ公安に尾行される日々であろうが

現在、私は元気です。

では何故そういった映画が好きかと言うと、

人がたくさん死ぬ映画では一つ一つの死が圧倒的に軽く描かれていて、私に人の脆さを再確認させてくれるからなのです。

本来人の死なんてその程度のもんだよな という気持ちになることで、より一層人に対して優しくなれる気がする

というと、少々というより大いに臭いセリフですが、まあ

ガンガン人が死ぬ事で生まれるスピード感は、勿体ぶって死を扱う「世界の中心で愛をなんたら」よりも

私に隠された現実を教えてくれる気がします。

セカチュウで言うなら、そりゃ人は死ぬよ って感じで、私の人生にもやがて訪れるものであって

わざわざ映画で見なくともその内経験出来るからいいやってなもんです。

ちなみに今まで観た、人がいっぱい死ぬ系の映画の中で一番良かったのは

プライベート・ライアンです。


で、現実と虚構というものが確実に世にある訳ですが

世間的には現実の方が偉い みたいな扱いですが、私はそれに違和感を覚えます。

それは全く別の場所に存在していて、それぞれに等しい価値しか無いもんだと思うんですね。

ちょっと待った! そういう声が今聞こえてきました。


映画「ジョゼと虎と魚たち」で、いくら妻夫木聡がおいしそうにご飯を食べても

現実の私は一個も腹が膨れないじゃないか!と。


もしくは、

映画「インストール」で、神木隆之介上戸彩のおっぱいを触っていたけども

エグザイルのhiroの方が現実に触っていて、そっちのが羨ましいじゃないか!と。


じゃああなたは、エグザイルに入りたいですか?とお聞きしたい。

エグザイルに入る覚悟はありますか?と伺いたい。

仮りにエグザイルに入った場合、何やってるの?と聞かれたら

パフォーマーと言うしかなく、

じゃあ歌唱印税は入らないの?とか、生活苦しくない?とか

そういった不躾な質問をされるに決まっています。

それならば、

エグザイルに入らずに胸を触れた神木隆之介の方が良いんじゃないか?

むしろ良いに決まっていると私は思うのです。

現実が虚構に敗北したという事です。


例えば、「ミナミの帝王

竹内力が借金の返済を迫り追い込みをかけます。

私は竹内力の様な人に追い込みをかけられたくありませんし、

勿論、竹内力にもなりたくありません。

こういったケースもあります。


虚構は良いなと思う事もあれば、虚構で良かったと思う事もあるでしょう。

それぞれの良い部分を上手に利用するのが良いと思います。


追伸 最近、大きな地震が来ると勝手に思っていて恐怖におびえていますが

参考までにと、今日「東京マグニチュード8.0」を借りてきました。