半端な模倣が獲得したオリジナリティーの考察

カップ焼きそばが大好きだ。

だけども本物の焼きそばはそこまで好きじゃない

こういう事って意外に結構あるんじゃないか?という仮説の元話を進めたい。

焼きそばとカップ焼きそばの差異はどこにあるのかをまず考えると、

一つに水分量の調整自由自在である事があげられる。

個人的には完璧に湯切りする2歩手前を最高の状態とし

世間ではこれを、

朝露をまとった状態 と言うがこれこそがカップ焼きそばのカップたる所以だと思っている。

完璧に湯切り出来た状態 いわゆる麺の砂漠化、乾麺が調子乗った状態だとそれはもはや

擬似焼きそばであって それでは本末転倒である。

私は焼きそばを作る事が出来るが、あえてカップ焼きそばを選んだのだからし

その状態にするのであれば、普通に焼きそばを食え とそういう話になるのである。

また、これは自分の技術の未熟さもあるのだけど

焼きそばを作る時に、全くアルデンテがどこにいるのか分からなくなる事はないかい?とそう問いたい。

基本的に焼きそばと言えば、マルちゃん焼きそばの事を言うが

あれの作り方には

1,野菜とか肉を焼け 

2,麺を入れろ 

3,水を少し入れろ 

4,水が無くなったら完成 

こんな風に書いていたと記憶するが、水分とアルデンテの関係が緊密過ぎて

水気を切りすぎた時には、フニャフニャの麺になってしまうし

アルデンテを目指しても物理的に、麺が手と手を取り合って徒党を組んだ状態のままだったりと

些か障壁が多いと感じる。

私はアルデンテにはうるさいと自他共に認める人間である。

カップ焼きそばであっても、アルデンテを失う恐怖感で2分待たずに湯切りしてしまう様な執念のアルデンターである。

その結果、麺のアルデンテは守れても キャベツが硬い状態

いわゆるアルデンターのデンターがやばい状態であっても

焼きそばに異物感アリ状態であったとしても、アルデンテでさえいてくれたら

お前さえいてくれたらと、心安らかに食べるのである。

それが、焼きそばと言う強敵が相手だと

私はいとも簡単にアルデンテを失うのである。

アルデンテの喪失

これ程人生で悲しいものがあるだろうか。

模倣として生まれたカップのあいつを私は以上の理由から愛でるのである。

では、模倣がその半端な模倣故にオリジナルティーを宿した事例は他にはどんなのがあるだろうか?

私はまず倉木麻衣というものを思い出した。

彼女がデビューした時、宇多田ヒカル本人がその曲を聴いて自分かと思った程の模倣具合である。

しかし今では彼女達の距離は当時では考えられない程に開き

全米デビューを失敗した宇多田

名探偵コナンと言えばの倉木 

双方独自のアイデンティティーを持つに至ったのである。

次に思い浮かんだのが、

通称 コロッケ 自称 Mr.CROKET であるが

あれも模倣がオリジナルになった稀有な例である。

他にも探せばあるでしょうから、

身の回りのものを探して体系的に理解出来るよう頑張って下さい