ニルヴァーナをもう1度

チャットモンチーは女ロックというジャンルに風穴を開けたか

シシャモというバンドを見る限り開いたようだ。

というのも、女ロッカーという言葉を聞いてイメージされるものは

それは正しくジャニス・ジョプリン的であるという事だった90年代、

杏里が正しく女ロッカーであり、プリンセスプリンセスもまた女ロックバンドであった日々

最後の女ロッカーは土屋アンナで決まりだなと思っていたところ

私の耳を高畑裕太(22)ばりの強引さで支配したのは黒木渚「ふざけんな世界、ふざけろよ」であった。

ふんわりとした糞をカリッとした糞でコーティングしましたみたい音、

特に歌詞の譜割りの糞さに私がゴッホであれば即耳を切り落とし、

全身にお経を書いて貰ったうえで厄を払い、しかしながら和尚さんのおっちょこちょいで耳だけお経を書き忘れ

無念にも耳だけ悪霊に持っていかれた みたいな気分で心は一杯になったというのも

黒木渚のロック観が90年代で完全にストップしていたからで、

そういえば90年代は ニルヴァーナの時代よなあ と詠嘆。

ニルヴァーナが正しく音楽的に評価される日はまだ来ないのか と驚嘆。

ブルースやモードジャズ以降、最も音楽的な謎の残る物件であるというのは

つまり、

省略された何かしらがあった際、それを元の形に戻したのであれば

それは正しい形に戻った 復元された と言えるはずなのに

ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」に代表される楽曲では

省略された形がそのまま完成形になっている という謎である。

ギターで弾かれるコードは全て3度の音が省略されたパワーコードであり

弾き語り用のコード進行では

Em−A(Am)−G−C

なぞと表記され 2番目がAの表記とAmの表記どちらも見られる点から

西洋音楽理論的にもメジャーかマイナーかを同定され得ないコードであって

これだけでも研究の価値があるのだけども、

この曲をKEY=Gだと過程した際にGのコードの部分で

本来AmからGに以降した場合に感じられるトニック感が薄い事から

あーそうか、

結局のところ、FもF♯もコードの中に無いんだなと気付き

そもそもKEY=G もKEY=Cもどちらも同定出来ないのだなという事で、

ニルヴァーナを語る際に浮遊感という言葉はあまり使われ無いのだけども

KEYを同定出来ない事から来る浮遊感は確実に発生していると見て間違いない。

また

コードをある程度の早さで展開しリフとするニルヴァーナの楽曲は、

コードの本来持つ機能が失調している可能性があって

これにより、よりモーダルな作曲が可能になっている気がする。

そして、その部分にこそカート・コベインの作曲の本質があると私は睨む。


ほえる犬は噛まない のレンタル落ち中古DVDを300円で買った夜に