タモリ論 知の独占禁止法の所為で、知そのものに価値は無くなって

僕とタモリ

という書き出しで始めるといかにもタモリこと、通称タモさんが逝かれたかの様だけども

私にとってタモリことタモさんは、気づいたらテレビに出ていた人間であって

それもそうか、私が物心付く前にいいともは始まっていたのだものなあつって

青森だと夕方の顔ってな位置づけであり、多くの国民との関係性とは違うものなのかもしれない。

しかし、後に試験勉強で深夜番組にどっぷり浸かる頃になると

タモリ倶楽部の様な夜のタモリに新鮮な驚きがあって、夕方のタモリとの乖離に心のサングラスを取った様な

そんな眩しさを感じたのであった。


町田康の小説に文化ブローカーに言及したものがあって、

簡単に言うと、

今原宿ではこんなものが流行してまっせと田舎で田舎者相手に商売をする様を描いているのだけども

多くの音楽がかつてその様に一世を風靡したのと同様に、

タモリもまたそういった場所から咲いたのである。という様なものを山藤章二の対談で読んだ事があるが

つまりは、お笑いそれそのもの音楽それそのものの価値とは別に

俺知ってる感、俺だけが知ってる感、俺分かってる感、俺凄い感を巧みに提供していた訳で

例えば、細野晴臣のカリブ三部作というものなんかが正にそれで、

カリブ海にはこんな音楽がありまっせ というものを、

巧みに自分の作品に織り込む事で、

晴臣知ってる感、晴臣だけが知ってる感、晴臣分かってる感、晴臣凄い感を演出していた訳で

という様な書き方だと非常に悪い印象を与えるのだけども、

つまりは、新大陸の発見みたいなもので

いやいや 元々ここにあったがな という感じ、雰囲気が現地の人にはあって、

そして今現在、インターネッツの普及により容易に現地の人の声が届く様になっていて

地球上から僻地は無くなってしまった。

未開の地が無くなってしまったという事は、

未開の地を多くの人に紹介する職業も無くなってしまったという事で、

自由主義経済なんてな事で世界の風景が今、確実に画一的になりつつあるっつうのも含めて

それがお笑いの世界、音楽の世界にも浸透してある。


かつて、新しい音楽が誕生した場所は全て港町であるっつうのは、つまりそういう事である。


私が面白いなあと思うのは、

クレイジーキャッツドリフターズがその出処がジャズであるのに対して

タモリもまたジャズがその出処である点で、

ジャズとお笑いというのは不思議に共通するのだなあって、

そこに横たわるのは、ライブ感なのかサービス精神なのか

もしくは、筋書きの無いドラマなのか知るよしも無いのだけども、

私の見解では、人間性なのかなという気がしないでない。

コルトレーンであれ、マイルスであれ

根本にある人間性が結果的に作品に良く現れるっつうのはこれジャズ。

タモリもまた、様々な番組で時にタガが外れた様に遊ぶが

五線譜の上を自在に泳げなかったタモリが、

場所を変えてお笑いという枠組みの中で、そのアドリブ演奏を楽しんでいる様で

いいともというスタンダードナンバーを手放したタモリが、

今後どの様に遊ぶのか楽しみであーる


ちなみに私だけが知ってるナイスミュージックというところで言うと、

テラービジョン「Regular Urban Survivors」は隠れたB級名盤で、

たぶんこの事実は、私しか知らないと思う。

ちなみにアマゾンは

http://www.amazon.co.jp/Regular-Urban-Survivors-Terrorvision/dp/B0000074EP/ref=ntt_mus_ep_dpi_5