友達とは何かについてのはなし

今週のお題「私のともだち」

友達、親友、仲間といろいろな呼び方もあるし人によってそのしきい値も大きく変わる

いわゆるともだち。

広く浅く付き合う人もいれば、深く狭く付き合う人もいるでしょう。

私の場合は深く狭くしか付き合えないし、浅い付き合いの人をどうしても友達とは思えない。

ではその浅さ、深さとは何によって決まるか?

それは思い入れであると言って良いでしょう。

長く使い込んで愛着の沸いたポットもあれば、出会った瞬間に一目惚れしたアイポッドもあるだろうし

そういった物に対する愛着と同じような感情であると思う。

ただ物と違うのは人というのは感情をお互いに持っているので、

私はアイポッドが好きだが、アイポッドは私の事が嫌い

なんて事は無いが、

私は蟹江敬三が好きだが、蟹江敬三は私を知らない 

という様なすれ違いが生まれてくるのである。

そして、友達であるという事は友達であろうとする事、友達でいたいと思う事が必須で

それはお互いがそう思っていなければ成立しない。

つまり、私は私の友達が大好きであるし

私の友達は私の事が大好きであるはずなのである。

しかし残念ながらそこには程度問題が存在し、

お互いのパワーバランスが拮抗しているいわゆる

ラブ・アンド・ピースの状態はなかなかに存在し難い。

それが最高の状態にある時、人は人を親友と呼ぶ

ジャイアンはそれを心の友と言う。

この場合、のび太ジャイアンの心の交流は大概一方通行な場合が多く

ジャイアンにとっての心の友は一過性の高揚感によるただの連帯感であって

これを親友の関係と呼ぶのは疑わしいと思われる。

パワーバランスこそが一番重要な要素であるといえる。

貧乏時代に出来た友達は一生の友達だが、

それが億万長者になってしまうと、こいつは金目当てなんじゃないか?とか

お金が無い事の劣等感だとか疑心暗鬼で相互に深く理解し合う事は難しい。

ヤムチャは悟空と友達であるが、あれは弱い時代を共に生きたからであって

フリーザを倒した後の悟空とヤムチャが知り合ったとしても、そこに友情は生まれない可能性が濃厚である。

そこには、悟空はバカだがヤムチャ側に引け目や後ろめたさが生まれる可能性のある為である。


個人的に、友達が新興宗教ネズミ講にはまった場合

相手の意志や考えを尊重せずに、止めろ!と目を覚ます様に言う位に

相手の人生に踏み込めるようじゃないと友達とは言えないと思う。

また、連帯保証人になる場合

友達ならこれ率先してなってやるべきであるが、これに関しては存分に考えて下さい。


最後に私にとっての友達とは、

私にとっての生きる理由であり、私にとっての死なない理由です。

生まれてきてからこれまでで、一番無くしたら嫌な大切な宝物です。

みなさんもお大事に